『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』ッ!
2021年12月4日 趣味 コメント (2)
▼大山登山
ひさびさ登ってきた。
行きたいなーでも寒いしなーと迷っていたところ職場の後輩が「大山いってきましたよー紅葉きれいでしたー」と背中押してきたのでじゃあと。
まあでも紅葉はもうあんまなかった。
と思う。
いやあったにはあったけど、あった・・・のか?っていう・・・わかんね。
これなら要所にあったとしても「ふーん」で終わってたろう。
つくづく、そういうのに、興味がない人間なのだと思う。
そもそも登山始めたきっかけがそうした「感性・情緒を養う」だったのにいまだ何も成長していない。
四季を感じたり自然に対し思うところを養ったりとかそういうの。
ならもういっそ感性ではなく知識で語れるようにするのも手か。
知識の力によってまるで感性があるかのようにふるまう。
悪くなさそう。
諸事情により自分はいまだ交通機関は現金支払いでやってきた。
でももうやめると決めた。
帰りのバス満員で老若男女いるなか、マジで現金支払いが自分だけだったからだ。
どうかなーと思って一応最後まで残って確かめたし。
ご年配も多かったから2、3人はいるだろ、いねーんかいと。
じゃあもう携帯でやるようにします・・・
▼アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』
現在配信分12話見終えた。
色々覚悟の上で見ているので楽しめている。
進むにつれぶっ飛んだアイディアも増えてくるし。
期待通りジャンピン・ジャック・フラッシュ戦良かった、効果音とか、空気の摩擦熱防御兼攻撃とか。
あそこはやっぱり6部のなかではかなりのおもしろ(かつわかりやすい)バトルだと思う。
▼マンガ『ドラゴンボール超』(17巻)その1
最新巻。
ベジータが”我儘の極意”を修得。
悟空の”身勝手の極意”が「相手の攻撃に対し考えるよりも速く体が反応する」防御型の奥義であるのに対し、ベジータは「相手の攻撃を食らうたび(闘争心が燃えるたび?)に上限なく強くなる。ついでに破壊神の技も使える」といった攻撃型の奥義。
まあうんって感じ。
個人的に『ドラゴンボール超』はいろいろひっくるめて「まあうん」で追っている。
良さげなとこだけつまんでいければいいかなスタンス。
ただ今巻はかなりベジータ巻だったので他巻よりは見どころ多く。
いまの敵はグラノラというサイヤ人に恨みを持つやつ。
グラノラはドラゴンボールの力で自らの相当な寿命年数と引き換えに『宇宙一の強さ』を手に入れている。
悟空はすでに敗れており、ベジータは悟空以上に健闘するもやはりいま一歩及ばず(悟空もベジータも奥義に関してはいまだ発展途上というのもあり)。
もはや勝ち目のない戦況、それでもベジータは向かっていく。
なんかもう悟空が、なぜそこまで?ってなるほどに。
この戦いの前にベジータは破壊神ビルスとある会話をしている。
それはサイヤ人の罪についてであり、ベジータはすべてのサイヤ人の罪を背負ったつもりでいるが、そんなことにとらわれているようではこれ以上の成長はないとビルスは諭す。
破壊の技を使うものは破壊のことしか考えない、その他の考えは捨てろと。
しかし結局ベジータにはそれができなかった。
ボロボロになりながらも立ちあがる、もはや勝ち負けではなくグラノラの中にあるサイヤ人への怒りをすべて受け止めるかのように。
ここはどうにも泣けてしまった。
あのベジータが、他者を受け止めることができるようになったんだなと。
家族ができて大切なものができて、そうした守りたいものを守るために戦うことはできるようになってたけど、これはまたちがう大きな変化だと思えてならず。
決して罪滅ぼしにはならないが、それでもっていう。
ただこの直前、ベジータはグラノラに対し「おまえが受け止めなければこの星自体が破壊される」技を繰り出しているのが玉に瑕というか、そういうとこはまだ残ってるんだなというか(この戦いの舞台であるシリアル星には平穏な住民も多数いる)。
まあもうここまできちゃった『ドラゴンボール』にいまさら一般的な倫理観をどこまで持ち出せるものかわからんけど、「最悪ドラゴンボールで復活させればいいだろ」は考えてはいるんだろうし、なんならベジータ自身一回死んでるしだけど、モヤモヤはする。
まあ、まったくもって善人化してしまった、漂白されきったベジータというもつまらないような気はするので、悟空が同じことをやったらショックだけどベジータなら「まだまだかつてらしさは残ってんなー」ってところで許容はできる。
それはそれでリアルではあるかなと。
▼マンガ『ドラゴンボール超』(17巻)その2
『ドラゴンボール超』は基本的に期待のハードル低めで読んでいる。
それでもどうにも気になるところは今巻もあった。
ベジータ活躍巻だっただけに彼のセリフについてところどころ。
例えば、
「ここでお前に殺されても文句は言えねぇ・・・
でもよ・・・お前がサイヤ人を絶滅させたら同じことにならないか・・・?」
のとこはさすがに、ベジータこんなしゃべり方する?なった。
「ここでおまえに殺されても文句はいわん・・・
だが・・・おまえがサイヤ人を絶滅させたら同じことになるんじゃないのか・・・?」
のほうがまだベジータとしては自然じゃないだろうか。
特に「いわん」と「だが・・・」はゆずり難い。
本当は「おまえ」を「きさま」にしたい気持ちもあるけど、でもかつてからいろいろ変化したベジータであることやグラノラへの思いを考慮すると「おまえ」なのかなと。
まああくまでも”俺の中のベジータならこう”っていう単なるウザ主張だけど。
あともうひとつ、ここまできたら戦闘力なんてもうどうなってんのか、ムッチャクチャなことになってるはずだけど、戦闘描写自体はふつう。
なんなら殴ってふっ飛ばした体を大木が受け止めたりするし。
いやもう、こいつらの強さで何かをふっ飛ばしたら、それを受け止める物体なんてそうそう無くてよくない!?思ってしまう。
水中での気弾なんかも気溜めの時点で川が瞬時に蒸発とかしてくれても納得するけど、そういうのもべつにないし(気弾はそういう性質じゃないとかの話とは別に、あくまで描写として)。
グラノラもぶっ飛ばされてからの方向転換で木にマフラー巻きつけたりするし(いいけどそれ”宇宙一”かなー?とつい)。
何か一個でもいいから、今までここまでのはなかった!って思える戦闘描写がほしくもある。
▼年末の楽しみ
・12月27日〜29日、岸辺露伴
・12月30日、獣道4
ひさびさ登ってきた。
行きたいなーでも寒いしなーと迷っていたところ職場の後輩が「大山いってきましたよー紅葉きれいでしたー」と背中押してきたのでじゃあと。
まあでも紅葉はもうあんまなかった。
と思う。
いやあったにはあったけど、あった・・・のか?っていう・・・わかんね。
これなら要所にあったとしても「ふーん」で終わってたろう。
つくづく、そういうのに、興味がない人間なのだと思う。
そもそも登山始めたきっかけがそうした「感性・情緒を養う」だったのにいまだ何も成長していない。
四季を感じたり自然に対し思うところを養ったりとかそういうの。
ならもういっそ感性ではなく知識で語れるようにするのも手か。
知識の力によってまるで感性があるかのようにふるまう。
悪くなさそう。
諸事情により自分はいまだ交通機関は現金支払いでやってきた。
でももうやめると決めた。
帰りのバス満員で老若男女いるなか、マジで現金支払いが自分だけだったからだ。
どうかなーと思って一応最後まで残って確かめたし。
ご年配も多かったから2、3人はいるだろ、いねーんかいと。
じゃあもう携帯でやるようにします・・・
▼アニメ『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』
現在配信分12話見終えた。
色々覚悟の上で見ているので楽しめている。
進むにつれぶっ飛んだアイディアも増えてくるし。
期待通りジャンピン・ジャック・フラッシュ戦良かった、効果音とか、空気の摩擦熱防御兼攻撃とか。
あそこはやっぱり6部のなかではかなりのおもしろ(かつわかりやすい)バトルだと思う。
▼マンガ『ドラゴンボール超』(17巻)その1
最新巻。
ベジータが”我儘の極意”を修得。
悟空の”身勝手の極意”が「相手の攻撃に対し考えるよりも速く体が反応する」防御型の奥義であるのに対し、ベジータは「相手の攻撃を食らうたび(闘争心が燃えるたび?)に上限なく強くなる。ついでに破壊神の技も使える」といった攻撃型の奥義。
まあうんって感じ。
個人的に『ドラゴンボール超』はいろいろひっくるめて「まあうん」で追っている。
良さげなとこだけつまんでいければいいかなスタンス。
ただ今巻はかなりベジータ巻だったので他巻よりは見どころ多く。
いまの敵はグラノラというサイヤ人に恨みを持つやつ。
グラノラはドラゴンボールの力で自らの相当な寿命年数と引き換えに『宇宙一の強さ』を手に入れている。
悟空はすでに敗れており、ベジータは悟空以上に健闘するもやはりいま一歩及ばず(悟空もベジータも奥義に関してはいまだ発展途上というのもあり)。
もはや勝ち目のない戦況、それでもベジータは向かっていく。
なんかもう悟空が、なぜそこまで?ってなるほどに。
この戦いの前にベジータは破壊神ビルスとある会話をしている。
それはサイヤ人の罪についてであり、ベジータはすべてのサイヤ人の罪を背負ったつもりでいるが、そんなことにとらわれているようではこれ以上の成長はないとビルスは諭す。
破壊の技を使うものは破壊のことしか考えない、その他の考えは捨てろと。
しかし結局ベジータにはそれができなかった。
ボロボロになりながらも立ちあがる、もはや勝ち負けではなくグラノラの中にあるサイヤ人への怒りをすべて受け止めるかのように。
ここはどうにも泣けてしまった。
あのベジータが、他者を受け止めることができるようになったんだなと。
家族ができて大切なものができて、そうした守りたいものを守るために戦うことはできるようになってたけど、これはまたちがう大きな変化だと思えてならず。
決して罪滅ぼしにはならないが、それでもっていう。
ただこの直前、ベジータはグラノラに対し「おまえが受け止めなければこの星自体が破壊される」技を繰り出しているのが玉に瑕というか、そういうとこはまだ残ってるんだなというか(この戦いの舞台であるシリアル星には平穏な住民も多数いる)。
まあもうここまできちゃった『ドラゴンボール』にいまさら一般的な倫理観をどこまで持ち出せるものかわからんけど、「最悪ドラゴンボールで復活させればいいだろ」は考えてはいるんだろうし、なんならベジータ自身一回死んでるしだけど、モヤモヤはする。
まあ、まったくもって善人化してしまった、漂白されきったベジータというもつまらないような気はするので、悟空が同じことをやったらショックだけどベジータなら「まだまだかつてらしさは残ってんなー」ってところで許容はできる。
それはそれでリアルではあるかなと。
▼マンガ『ドラゴンボール超』(17巻)その2
『ドラゴンボール超』は基本的に期待のハードル低めで読んでいる。
それでもどうにも気になるところは今巻もあった。
ベジータ活躍巻だっただけに彼のセリフについてところどころ。
例えば、
「ここでお前に殺されても文句は言えねぇ・・・
でもよ・・・お前がサイヤ人を絶滅させたら同じことにならないか・・・?」
のとこはさすがに、ベジータこんなしゃべり方する?なった。
「ここでおまえに殺されても文句はいわん・・・
だが・・・おまえがサイヤ人を絶滅させたら同じことになるんじゃないのか・・・?」
のほうがまだベジータとしては自然じゃないだろうか。
特に「いわん」と「だが・・・」はゆずり難い。
本当は「おまえ」を「きさま」にしたい気持ちもあるけど、でもかつてからいろいろ変化したベジータであることやグラノラへの思いを考慮すると「おまえ」なのかなと。
まああくまでも”俺の中のベジータならこう”っていう単なるウザ主張だけど。
あともうひとつ、ここまできたら戦闘力なんてもうどうなってんのか、ムッチャクチャなことになってるはずだけど、戦闘描写自体はふつう。
なんなら殴ってふっ飛ばした体を大木が受け止めたりするし。
いやもう、こいつらの強さで何かをふっ飛ばしたら、それを受け止める物体なんてそうそう無くてよくない!?思ってしまう。
水中での気弾なんかも気溜めの時点で川が瞬時に蒸発とかしてくれても納得するけど、そういうのもべつにないし(気弾はそういう性質じゃないとかの話とは別に、あくまで描写として)。
グラノラもぶっ飛ばされてからの方向転換で木にマフラー巻きつけたりするし(いいけどそれ”宇宙一”かなー?とつい)。
何か一個でもいいから、今までここまでのはなかった!って思える戦闘描写がほしくもある。
▼年末の楽しみ
・12月27日〜29日、岸辺露伴
・12月30日、獣道4
コメント
(そして現金のみの券売機に戸惑い一本乗り遅れた)
大山は見るだけで登ったことないな
高尾山にはよく行ってたけどねぇ
高尾山も登ったことありますが、普通に観光的に楽しむなら高尾山のほうがいいと思っています。頂上もいい感じに開けててにぎやかな印象でしたし。
大山は個人的に行きやすい距離というのと、高尾山ほど整備されておらず人もまあまあってところが気に入っています。