『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』見てきた。
ネタバレする。
いろんなことに決着がついてた。
と個人的には思えた。
まあ結局、設定資料見なきゃわからんままなことだらけでもあったけど。
でもそのへんはもう、慣れてるよね?今はネットもあるしね!ってことなんだろうなと。
人によって何を肝心としているかで感想も変わる。
自分としては結局は人の物語なんだからこれでいいんだろうなと。
人物解決のなかで特にをいえばゲンドウ。
そんな、そこまで解決する?そんなにまで赤裸々に?
というくらいに。
今までのようにぼかしてカッコつけさせたままで終わらせなかったね・・・
例のごとく小難しいこと言ってるなー、思った直後、結局ぶっちゃければこういうことだったんす・・・って、意外なくらいあらわにしてくれてたし。
あー知ってたけど、それで全人類巻き込んでまで・・・あーでも、そうか、そういう人だったのか、あー・・・
ってキライにはなれんかった。
ユイと再会したい強い願望があって、ゼーレの計画がそれを叶えられるものだったから、乗っかって利用しちゃったんだ。
いやアカンといえばアカン人ではあるのだけども。
でも、そう、最後はカッコつけてなかったから自分は受け入れられたんだと思う。
そしてその息子さん。
シンジは、途中でもうシンジさんになってたな。
ある種のスパロボシンジさん・・・いや自分の知るかぎりではそれ以上の人間になってた。
個人的にはTV版から続くシンジのうじうじを「うじうじしやがって!」みたく思ったことは一度もなかった。
大体の場合「そらそうもなるよ」って見ていた。
むしろうじうじしてるときも、あんだけうじうじし続けられるのも逆に根性いるんじゃないか思ってもいたし。
実際前向きなかたちでエネルギー発揮したときはちゃんとカッコ良く輝ける人だったからな。
でもって今最終作でのシンジの復活、目覚めのきっかけもやっぱり「そらそうもなるよ・・・」だった。
そら、そらあ、目の前であんな、なあ。
受け入れられない悲しみ、受け入れるしかない悲しみ、でも、背負える人になったんだ。
ひと足もふた足も早く大人になった(というかシンジが遅れたんだけど)同級生たちの影響もあったんだろうか。
だから結局環境だったんじゃない?とも。
旧世界だって周囲がたとえば加持さんみたいな人だらけだったらあーはなってねーだろって。
しかも「シンジの引き起こしたサードインパクトのせいで多くの人類が死んだけど、そもそもあれがなかったらあの時点で全人類が滅んでた」とかさらっとものすごく肝なこと言ってた気するけど、じゃやっぱり『Q』の時点でああまでシンジ責め立てる理由なかったんじゃん!?思ったし。
詳細はややこしくてよくわかってないけど、でも”どっちにしろ”だったならやっぱりそうだろと。
そう考えるとシンジのことを嫌悪せず「よくやってる」とまで言ったマリ、彼女と最後ああいう感じになったのはもろもろ含めて悪くなかったと思う。
途中くらいまでは「この子やっぱりそんな必要って感じしないよね・・・」思っててゴメンなってくらいに。
まあマリはなんかフツーというか、展開に対しひたすら従順で面白味に欠けるなといった印象強く。
でもいまさら『Q』の時点から人物相関かきまわすわけにもいかなかったろうし、じゃあなんで出てきたっていったらちょいメタな理由もあるみたいだし、なんともなんだけど。
とはいえそんなマリだけが、シンジをフラットな感じで受け入れてくれていた。
シンジにとっての”ユイ”としてふさわしいのかなと、あの最後の最後でようやく思えた(まあ恋愛とはまた別のものだったとしても)。
アスカはぶっ尖り過ぎだし、タイミングが合わなかった、キャラとしては好きだけど相手があの成体ケンケンならいいだろと。
レイは、通じ合ったと思ったらいなくなる、そもそも母親の分身。
そしてシンジはのび太くんじゃないんだ。
のび太くん的願望はトウジ&委員長で満たしておくべしと。
そう考えてもあの中でならやっぱりマリでよかったんだと思う。
まあそのへんのことにはあんまり興味ない人間だからそう言えるのかもしれないけど。
そんでもあえて偏見でもって言わせてもらうと、この件に関して強めにブーたれる人はニナ・パープルトンを強めに批判する人と同種と見なす。
おれは勝手に見なすことにする。
人物として浄化されたのはゲンドウ、次いでミサトだと思う。
この最終作をふまえても『Q』でのミサトの言動は「無い」と思うままではあるけども。
まあおぼえてるかぎりではだから、見返したら感想変わるのかどうなのかってところではある。
とにかくしっかり浄化されててよかった、良き見どころ多かった。
リツコ氏ともどもよかった。
リツコ氏はこれ土壇場で裏切ったりしない・・・?一瞬思ったりもしたけど、最後まで良きリッちゃんのままでいてくれてよかった。
冬月先生はあんまよくわからんままだった。
ゲンドウに最後まで付き従う理由を『Q』で言ってたかどうかもおぼえてない。
まあ冬月自身のユイへの想い、それふまえてのゲンドウとの腐れ縁でもぜんぜんいいんだけど。
なぜか強い疑問はわかない。
この困った元・教え子の側にいてあげられる人間はもう自分しかいないから、というある種のやさしさだったという解釈もできる。
同じく元・教え子であるらしいマリにも協力したわけだし。
冬月は最後まで冬月先生だったのかな。
カヲルくんは正直よくわからなかったけど、本人が満足そうだったのでまあよかった。
この方に関しては『Q』で十分堪能した感もあったので。
でもカヲルくんがああなったってことは他の使徒も生まれ変われたんだろうか。
シンジそこまで気を回したのかな。
いや、時間はもどさないって言ってたから失われた生命はもどらない・・・でもカヲルくんは最後いたよな。
そういやカヲルくんは月にいっぱいいるんだっけか。
『ファイブスター物語』のログナーみたいな存在なんかカヲルくん。
とかそんな感じで満足はしたもののイチ映画としてはそんなにおもしろくはなかった(えー)。
いや・・・・・・『エヴァ』って何?つったら個人的には演出と映像だから。
TV版では要所でそれがあって、『破』が一番で、『Q』ですら見てるだけで燃え立つシーンはあった。
でも今作はそういうそこまでのはなく。
せっかくの地球最強親子喧嘩も、正直、え、今どっちがどっち??ってずっとなってたし、なんで作り手があれでやり通そうとしたのか疑問ってレベル。
せめて得物の形状を大きく分けるとかカラー変えるとかしてほしかった。
あとここまで言ったら単なる欲って話だけど、やっぱりバトルはセル画で見たかった・・・
3D、悪くないけど、どうしても固い、肉々しさ、力のきしみ具合といったところの”良さ”はやっぱりセル画に負ける。
そしてかつてはセル画での『エヴァ』の良さに魅了されてきたわけだから。
こうなってはもう戻れないんだろうし、この先2D作品における3D表現がさらなる発展を待つしかない。
とにかく各人物の解決っぷりはよかったけど、物語としてのあの終り方は、言ってしまえば『エヴァ』があったからこそ生まれた、もしくは強く影響を受けた多くの作品が選んだ締め方を当の『エヴァ』もやったという感じがした。
だから、そうか、自分はこの作品に大きく期待するところとして「新しさ」もあったんだなと。
それでいうと今作のなかからは個人的には見つけられなかったわけだし。
長く壮大な作品の締めとして決して悪くはなかったんだけども。
あくまでもこの最終作のみでの残念さって話だ。
だからまあ、二転三転する感じになるけど、『新世紀エヴァンゲリオン』って作品自体は本当におもしろかった。
これについてはもう唯一無二なんだからしょうがない、他にないわけだしこんな作品は。
言ってみれば『エヴァ』はダウンタウンよ、わからんけど、でもたぶんそう。
それを、こうまで膨れ上がった作品を、ここまでのかたちで終わらせてくれてよかったよ。
感謝だよ。
まだまだ残る疑問や気になった箇所はのちのちネットで調べるよ。
うん・・・・・・・・で結局マリって何!?!?とかも。
あと小ネタはいろいろあったみたいだけど、自分としてはやっぱり913、333でおーってなった。
『シンゴジ』のフォトンブラッドといいほんとに好きなんだなと。
とにかくそんな感じだ。
終わっちまった。
シンジも公式本編で大人になっちまった。
待ちに待ったと思ったらいきなり置いてかれた感。
『スパロボ』とかで環境に恵まれてまっとうに成長していくシンジを見るとうれしくなった。
その反面でこうして本当に大人になったシンジを見るとさみしくなる。
また置いてかれたって思う。
いつまでもここにいても仕方ないなと。
成長したシンジカッコよかったし。
そう思えたのが救いだ。
ネタバレする。
いろんなことに決着がついてた。
と個人的には思えた。
まあ結局、設定資料見なきゃわからんままなことだらけでもあったけど。
でもそのへんはもう、慣れてるよね?今はネットもあるしね!ってことなんだろうなと。
人によって何を肝心としているかで感想も変わる。
自分としては結局は人の物語なんだからこれでいいんだろうなと。
人物解決のなかで特にをいえばゲンドウ。
そんな、そこまで解決する?そんなにまで赤裸々に?
というくらいに。
今までのようにぼかしてカッコつけさせたままで終わらせなかったね・・・
例のごとく小難しいこと言ってるなー、思った直後、結局ぶっちゃければこういうことだったんす・・・って、意外なくらいあらわにしてくれてたし。
あー知ってたけど、それで全人類巻き込んでまで・・・あーでも、そうか、そういう人だったのか、あー・・・
ってキライにはなれんかった。
ユイと再会したい強い願望があって、ゼーレの計画がそれを叶えられるものだったから、乗っかって利用しちゃったんだ。
いやアカンといえばアカン人ではあるのだけども。
でも、そう、最後はカッコつけてなかったから自分は受け入れられたんだと思う。
そしてその息子さん。
シンジは、途中でもうシンジさんになってたな。
ある種のスパロボシンジさん・・・いや自分の知るかぎりではそれ以上の人間になってた。
個人的にはTV版から続くシンジのうじうじを「うじうじしやがって!」みたく思ったことは一度もなかった。
大体の場合「そらそうもなるよ」って見ていた。
むしろうじうじしてるときも、あんだけうじうじし続けられるのも逆に根性いるんじゃないか思ってもいたし。
実際前向きなかたちでエネルギー発揮したときはちゃんとカッコ良く輝ける人だったからな。
でもって今最終作でのシンジの復活、目覚めのきっかけもやっぱり「そらそうもなるよ・・・」だった。
そら、そらあ、目の前であんな、なあ。
受け入れられない悲しみ、受け入れるしかない悲しみ、でも、背負える人になったんだ。
ひと足もふた足も早く大人になった(というかシンジが遅れたんだけど)同級生たちの影響もあったんだろうか。
だから結局環境だったんじゃない?とも。
旧世界だって周囲がたとえば加持さんみたいな人だらけだったらあーはなってねーだろって。
しかも「シンジの引き起こしたサードインパクトのせいで多くの人類が死んだけど、そもそもあれがなかったらあの時点で全人類が滅んでた」とかさらっとものすごく肝なこと言ってた気するけど、じゃやっぱり『Q』の時点でああまでシンジ責め立てる理由なかったんじゃん!?思ったし。
詳細はややこしくてよくわかってないけど、でも”どっちにしろ”だったならやっぱりそうだろと。
そう考えるとシンジのことを嫌悪せず「よくやってる」とまで言ったマリ、彼女と最後ああいう感じになったのはもろもろ含めて悪くなかったと思う。
途中くらいまでは「この子やっぱりそんな必要って感じしないよね・・・」思っててゴメンなってくらいに。
まあマリはなんかフツーというか、展開に対しひたすら従順で面白味に欠けるなといった印象強く。
でもいまさら『Q』の時点から人物相関かきまわすわけにもいかなかったろうし、じゃあなんで出てきたっていったらちょいメタな理由もあるみたいだし、なんともなんだけど。
とはいえそんなマリだけが、シンジをフラットな感じで受け入れてくれていた。
シンジにとっての”ユイ”としてふさわしいのかなと、あの最後の最後でようやく思えた(まあ恋愛とはまた別のものだったとしても)。
アスカはぶっ尖り過ぎだし、タイミングが合わなかった、キャラとしては好きだけど相手があの成体ケンケンならいいだろと。
レイは、通じ合ったと思ったらいなくなる、そもそも母親の分身。
そしてシンジはのび太くんじゃないんだ。
のび太くん的願望はトウジ&委員長で満たしておくべしと。
そう考えてもあの中でならやっぱりマリでよかったんだと思う。
まあそのへんのことにはあんまり興味ない人間だからそう言えるのかもしれないけど。
そんでもあえて偏見でもって言わせてもらうと、この件に関して強めにブーたれる人はニナ・パープルトンを強めに批判する人と同種と見なす。
おれは勝手に見なすことにする。
人物として浄化されたのはゲンドウ、次いでミサトだと思う。
この最終作をふまえても『Q』でのミサトの言動は「無い」と思うままではあるけども。
まあおぼえてるかぎりではだから、見返したら感想変わるのかどうなのかってところではある。
とにかくしっかり浄化されててよかった、良き見どころ多かった。
リツコ氏ともどもよかった。
リツコ氏はこれ土壇場で裏切ったりしない・・・?一瞬思ったりもしたけど、最後まで良きリッちゃんのままでいてくれてよかった。
冬月先生はあんまよくわからんままだった。
ゲンドウに最後まで付き従う理由を『Q』で言ってたかどうかもおぼえてない。
まあ冬月自身のユイへの想い、それふまえてのゲンドウとの腐れ縁でもぜんぜんいいんだけど。
なぜか強い疑問はわかない。
この困った元・教え子の側にいてあげられる人間はもう自分しかいないから、というある種のやさしさだったという解釈もできる。
同じく元・教え子であるらしいマリにも協力したわけだし。
冬月は最後まで冬月先生だったのかな。
カヲルくんは正直よくわからなかったけど、本人が満足そうだったのでまあよかった。
この方に関しては『Q』で十分堪能した感もあったので。
でもカヲルくんがああなったってことは他の使徒も生まれ変われたんだろうか。
シンジそこまで気を回したのかな。
いや、時間はもどさないって言ってたから失われた生命はもどらない・・・でもカヲルくんは最後いたよな。
そういやカヲルくんは月にいっぱいいるんだっけか。
『ファイブスター物語』のログナーみたいな存在なんかカヲルくん。
とかそんな感じで満足はしたもののイチ映画としてはそんなにおもしろくはなかった(えー)。
いや・・・・・・『エヴァ』って何?つったら個人的には演出と映像だから。
TV版では要所でそれがあって、『破』が一番で、『Q』ですら見てるだけで燃え立つシーンはあった。
でも今作はそういうそこまでのはなく。
せっかくの地球最強親子喧嘩も、正直、え、今どっちがどっち??ってずっとなってたし、なんで作り手があれでやり通そうとしたのか疑問ってレベル。
せめて得物の形状を大きく分けるとかカラー変えるとかしてほしかった。
あとここまで言ったら単なる欲って話だけど、やっぱりバトルはセル画で見たかった・・・
3D、悪くないけど、どうしても固い、肉々しさ、力のきしみ具合といったところの”良さ”はやっぱりセル画に負ける。
そしてかつてはセル画での『エヴァ』の良さに魅了されてきたわけだから。
こうなってはもう戻れないんだろうし、この先2D作品における3D表現がさらなる発展を待つしかない。
とにかく各人物の解決っぷりはよかったけど、物語としてのあの終り方は、言ってしまえば『エヴァ』があったからこそ生まれた、もしくは強く影響を受けた多くの作品が選んだ締め方を当の『エヴァ』もやったという感じがした。
だから、そうか、自分はこの作品に大きく期待するところとして「新しさ」もあったんだなと。
それでいうと今作のなかからは個人的には見つけられなかったわけだし。
長く壮大な作品の締めとして決して悪くはなかったんだけども。
あくまでもこの最終作のみでの残念さって話だ。
だからまあ、二転三転する感じになるけど、『新世紀エヴァンゲリオン』って作品自体は本当におもしろかった。
これについてはもう唯一無二なんだからしょうがない、他にないわけだしこんな作品は。
言ってみれば『エヴァ』はダウンタウンよ、わからんけど、でもたぶんそう。
それを、こうまで膨れ上がった作品を、ここまでのかたちで終わらせてくれてよかったよ。
感謝だよ。
まだまだ残る疑問や気になった箇所はのちのちネットで調べるよ。
うん・・・・・・・・で結局マリって何!?!?とかも。
あと小ネタはいろいろあったみたいだけど、自分としてはやっぱり913、333でおーってなった。
『シンゴジ』のフォトンブラッドといいほんとに好きなんだなと。
とにかくそんな感じだ。
終わっちまった。
シンジも公式本編で大人になっちまった。
待ちに待ったと思ったらいきなり置いてかれた感。
『スパロボ』とかで環境に恵まれてまっとうに成長していくシンジを見るとうれしくなった。
その反面でこうして本当に大人になったシンジを見るとさみしくなる。
また置いてかれたって思う。
いつまでもここにいても仕方ないなと。
成長したシンジカッコよかったし。
そう思えたのが救いだ。
コメント
「わからないのがエヴァだろう!」って感じで、カオスの中に突き落とされて終わるかと覚悟してたら、まさかの。
日記羊さんのこのレビューも素晴らしくて、泣きそうになりました。
やっぱり意味不明なところもあって、新たな「それどういうこと?」が増えてた気もするのに、それでも肝心なところは「しっかり終わってくれた」って思えるかたちでよかったです。
レビューなんて大したものじゃありませんが、このさい今書けること書いておこうと思いました。もりのさんのように同じくこの作品を追っていた人に目を通していただけて、とてもありがたいです。