▼ゲーム『サガ スカーレット グレイス 緋色の野望』
バルマンテ編最終決戦。
勝てる気がしねえ・・・
▼映画『ジェーン・ドゥの解剖』
そうかーという感じだった。
死体安置所にある死体が原因で怪異が起きる、実はその死体の正体は◯◯であり・・・というのは個人的に創作案としてもっていたものだった。
もしかしたらと思いつつ見たら案の定かなり被ってたのでアイディア封印する。
まあ自分が思いついたときにはすでにこの映画あったみたいだしいいんだ。
▼映画『レザボア・ドッグス』
ふと見たくなりNetflixにあったので見た。
ふと見たくなったら大抵すぐ見れちゃう時代。
見たのかなり前だけど思ってたより要所のことはおぼえてた。
ただキャラクターのことはさっぱりだったけど、改めて見るとブロンドのセクシーさったらないな。
もうなんだろうかコレ。
つか出てくる人物ほとんど全員イイんだよな。
この作品はほうぼうに影響与えまくってる、というか自分の好きな作家にこの作品好きな人多いような気がする。
最近では『ヒロアカ』の作者なんかも作中の強盗団だかに”レザボア・ドッグス”ってそのまま名付けてたし、また終盤のホワイトとオレンジのやりとりなんかはどうしてもホークスとトゥワイスを思い出してしまう。
それと『殺し屋1』の、ヤベーやつを捕虜と二人きりにすると何すっかわからねえこわさ、もブロンドと警官からなのかなーとか。
自分は一時期一番好きな映画は『鮫肌男と桃尻女』だったのだけど(今も大好き)これなんかもけっこうモロっぽい。
たしか『キル・ビル』のメイキング映像で、タランティーノに『鮫肌』見てもらってる後ろで「あそこパクったのがバレる〜」みたく監督の石井克人(『キル・ビル』アニメパート制作)が頭抱えてもいたし。
『鮫肌』の『レザボア』影響箇所は自分なんかでもわかるところだと音楽の使い方で、たしかにあそこカッコいいもんなーと。
あと大して意味なんかないだろうところをすごく思わせぶりに見せるとこも共通してる。
でもそれがなんだか印象的にもなってしまっていたりする。
印象付けてしまえば作品において無意味は無意味じゃなくなる、意味あることだけを意味あることとしなくていい、と考えるところだろうか。
次の休日はひさびさに『鮫肌』見るのもいいかもしれない。
▼マンガ『サルチネス』
最後泣けるとあったけど自分は全然だった。
自分で言うのもなんだけど、これはけっこうめずらしいことで、大抵の場合人が「泣きそう」言うときにはほぼ自分は泣いていて人が「泣いた」ってときには号泣している。
例外は作品そのものを気に入らなかったときだけど、でもこのマンガはちがう、すごく気に入った。
泣けなかった理由としては、自分は主人公タケヒコを最初からうらやましい人、強い人、幸せな人、として見ていたからだと思う。
他にとらわれない生き様をもちながら、ただひたすらに妹を妹として愛し、妹もまた兄を愛し、祖父もそんなふたりを家族として愛している。
愛する妹のために自分を変えようともする。
そしていく先々で出会う人間はみなどこか愛すべき真実をもった人たちばかりである。
そんな彼が、最後にはさらに人間としてなんだか魅力的になってるなという話の感想は、いいなぁ・・・にしかならないだろう。
よかったなぁじゃない。
自分にはブタ男こと谷川だってまぶしく見える。
最近、自分は真実の愛、情け、優しさなんてものはもてる人間なんだろうか?と思うから。
与えてはもらっている、でも自分は持ててない。
『サルチネス』終盤で落ち込んでいるタケヒコに社長が、フリでいいから、楽しんでるフリでいいからやってみろよ、と言っていた。
愛情とかにもそれは適用できるものなのだろうか。
愛情のあるフリをしていたら、いつか本当の愛情をもてるものなんだろうか。
それでもやってきたつもりでいるのだけど、ふとしたとき、結局持ててないなと気づく。
冷たいままでいることを選んでしまっている。
まだ足りてないのだろうか。
バルマンテ編最終決戦。
勝てる気がしねえ・・・
▼映画『ジェーン・ドゥの解剖』
そうかーという感じだった。
死体安置所にある死体が原因で怪異が起きる、実はその死体の正体は◯◯であり・・・というのは個人的に創作案としてもっていたものだった。
もしかしたらと思いつつ見たら案の定かなり被ってたのでアイディア封印する。
まあ自分が思いついたときにはすでにこの映画あったみたいだしいいんだ。
▼映画『レザボア・ドッグス』
ふと見たくなりNetflixにあったので見た。
ふと見たくなったら大抵すぐ見れちゃう時代。
見たのかなり前だけど思ってたより要所のことはおぼえてた。
ただキャラクターのことはさっぱりだったけど、改めて見るとブロンドのセクシーさったらないな。
もうなんだろうかコレ。
つか出てくる人物ほとんど全員イイんだよな。
この作品はほうぼうに影響与えまくってる、というか自分の好きな作家にこの作品好きな人多いような気がする。
最近では『ヒロアカ』の作者なんかも作中の強盗団だかに”レザボア・ドッグス”ってそのまま名付けてたし、また終盤のホワイトとオレンジのやりとりなんかはどうしてもホークスとトゥワイスを思い出してしまう。
それと『殺し屋1』の、ヤベーやつを捕虜と二人きりにすると何すっかわからねえこわさ、もブロンドと警官からなのかなーとか。
自分は一時期一番好きな映画は『鮫肌男と桃尻女』だったのだけど(今も大好き)これなんかもけっこうモロっぽい。
たしか『キル・ビル』のメイキング映像で、タランティーノに『鮫肌』見てもらってる後ろで「あそこパクったのがバレる〜」みたく監督の石井克人(『キル・ビル』アニメパート制作)が頭抱えてもいたし。
『鮫肌』の『レザボア』影響箇所は自分なんかでもわかるところだと音楽の使い方で、たしかにあそこカッコいいもんなーと。
あと大して意味なんかないだろうところをすごく思わせぶりに見せるとこも共通してる。
でもそれがなんだか印象的にもなってしまっていたりする。
印象付けてしまえば作品において無意味は無意味じゃなくなる、意味あることだけを意味あることとしなくていい、と考えるところだろうか。
次の休日はひさびさに『鮫肌』見るのもいいかもしれない。
▼マンガ『サルチネス』
最後泣けるとあったけど自分は全然だった。
自分で言うのもなんだけど、これはけっこうめずらしいことで、大抵の場合人が「泣きそう」言うときにはほぼ自分は泣いていて人が「泣いた」ってときには号泣している。
例外は作品そのものを気に入らなかったときだけど、でもこのマンガはちがう、すごく気に入った。
泣けなかった理由としては、自分は主人公タケヒコを最初からうらやましい人、強い人、幸せな人、として見ていたからだと思う。
他にとらわれない生き様をもちながら、ただひたすらに妹を妹として愛し、妹もまた兄を愛し、祖父もそんなふたりを家族として愛している。
愛する妹のために自分を変えようともする。
そしていく先々で出会う人間はみなどこか愛すべき真実をもった人たちばかりである。
そんな彼が、最後にはさらに人間としてなんだか魅力的になってるなという話の感想は、いいなぁ・・・にしかならないだろう。
よかったなぁじゃない。
自分にはブタ男こと谷川だってまぶしく見える。
最近、自分は真実の愛、情け、優しさなんてものはもてる人間なんだろうか?と思うから。
与えてはもらっている、でも自分は持ててない。
『サルチネス』終盤で落ち込んでいるタケヒコに社長が、フリでいいから、楽しんでるフリでいいからやってみろよ、と言っていた。
愛情とかにもそれは適用できるものなのだろうか。
愛情のあるフリをしていたら、いつか本当の愛情をもてるものなんだろうか。
それでもやってきたつもりでいるのだけど、ふとしたとき、結局持ててないなと気づく。
冷たいままでいることを選んでしまっている。
まだ足りてないのだろうか。
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