▼ドラマ『ザ・ボーイズ』
アマゾンオリジナルドラマ。
全8話一気に見てしまった。
以下ネタバレ有り。
内容はアメコミ原作スーパーヒーロー物。
しかしこの作品における”敵”はヒーローたちであり主役は普通の人間。
ヒーローに恨みをもつ者たちの戦いの物語なのだ。
この作品内のヒーローたち、特にトップにいる”セブン”なるヒーローチームは各々が強い能力を有している。
大企業に抱えられヒーローとしてタレントとして活動し強い支持をうけている。
が、その実情はなかなかの下衆野郎ぞろい。
それぞれに自尊心が強く、自己中心的な理由で人の命を平然と奪ったり、未熟な精神で自己の責任や弱さと向き合えなかったり、能力を悪用して下劣な趣味に走っていたり。
そんなセブンのひとりに主人公のヒューイは第1話で彼女を殺され復讐を始める。
この作品を見ていて生じる悪役(ヒーロー)たちへの嫌悪感がとにかくすごい。
ここ最近というか近年でダントツと思う。
悪は悪として描かれいれば、自分のなかの一般的な倫理道徳、正義とは別のところからの視点で見ることができる。
割り切れればキャラクターとしての魅力さえ見出すことができる。
しかしこの作品のヒーローたち(全員ではないけど)は妙にリアルな嫌さを感じてしまう。
表向きにはヒーロー活動はしているし、世間からの人気も絶大、各々が個性豊かに特殊な能力をもっている。
しかしヒーローらしい活動も、立ちふるまいも、コスチュームも、すべて企業がイメージとして作ったものだ。
彼らのおかげで実際社会的に助かっている事実もある。
みなが求めているヒーロー像を作り上げてはいる。
けど実情、彼らの中身は並の人間と変わらない。
それが大企業や世間に守られもちあげられ、結果肥大化した自尊心で歪んだ行動を平然と行うようになってしまっている。
そのことに気づき悩む者もいれば、憧れのままチームに入って失望する者もいる。
いろいろとショッキングな展開の多いドラマだけど、特に印象に残った場面が2つある。
ひとつはヒーローが一般人を見捨てる場面。
ハイジャックされたジャンボジェットにホームランダー(スーパーマン的な人。色々とヤバイ)とメイヴ(ワンダーウーマン的な人。比較的まとも。自身に飛行能力なし)がさっそうと駆けつけるも、操縦士と機長を殺されてしまう。
「これはもうムリだね」と早々に判断し引き上げようとするホームランダー。
さすがにどん引くメイヴ。
メイヴはせめて傍にいた少女とその母親だけでも助けようと訴えるがホームランダーは拒否。
「生存者がいたらこの失敗のことを話してしまうだろう?」と。
結局ヒーロー二人は乗客に背を向け飛び去っていくのだった・・・
ホームランダーはそういう奴とわかってはいたものの、それでも何か「見てはいけないもの」を見た気分になった。
もし助けられる命だけでも助けていれば、彼らはヒーローたちを責めはしなかったはず。
しかしホームランダーは人命よりも完璧なヒーローである自分を優先した。
人々を救う完全無欠な正義のヒーローであるというイメージのほうを守った。
それは実情を知っていれば嫌悪しか感じないけど、でもそのイメージこそはたしかに世間が、自分が求めているものなのかもしれないと思わされる。
何かしらの完全な、安心できるものに、寄りそい頼りたいという心。
それに裏切られたという気持ちは、結局自分の弱さから来るものなんじゃないだろうか。
正しさや強さや安心(だと思い込めること)を、自分以外の何かに期待しすぎる危うさや未熟さに気付かされた思いがする。
もうひとつは主人公で普通の人間であるヒューイが、恋人を殺した復讐の相手であるAトレイン(超高速で動けるヒーロー)と対峙した場面。
Aトレインは逆にヒューイを追い詰めるも、ヒーローの能力を高める薬を常用していたせいで心臓発作を起こす。
憎き相手、仇敵の自業自得な最期だ。
・・・ったはずなんだけど、ヒューイは動揺し、動揺して・・・仲間に「救急車を呼ぼう」と言う。
さらには心臓マッサージをほどこし始める。
さすがにハッとさせられた。
え、ヒューイ何を言い出・・・いや、そうか・・・そうだよな・・・って。
ヒューイは成り行きとはいえわりと序盤で別のヒーローを殺害している。
このドラマでは人がとにかく死ぬ、当たり前のように毎回簡単無残に人の死ぬさまが描かれる。
またAトレインは、故意ではないとはいえヒューイの恋人を殺し、後にそのことを不運な笑い話のように言い、謝罪を求めてきたヒューイの顔すらおぼえていないような人物だ。
そんな積み重ねがあっての最後のこのシーンは、なにか引き戻された感じになる。
しかし同時にまた・・・いやでもこれは、ヒューイが異質なんじゃないか?とも思う。
この場にはアニーというヒューイと通じ合ったヒーローもいる。
アニーはセブンに憧れて入ったものの、現実を知り、失望し、しかし強く立ち直り、本当に正しいことをなすためヒューイに協力するようになる。
そんなアニーもやはり「え、助けるの?」みたいなリアクションを取るのだ。
自分もこの場にいたら絶対アニーと同じだったはず。
だから本当のヒーローはヒューイのような人間なんだ、というのは簡単だけど、でもたしかに、そうなんだと思う。
そしてこの行動は、何かしらの特別な能力とちがって、自分にも出来得ることでもある。
だからこそ悩ましくむずかしいと感じる。
ありえないパワーに憧れるのではなく、自分でも取れるこの選択肢を取れるか?という問題だからだ。
これこそが「ヒーローになれるか?」という問いなのだと気付かされる。
この場面ヒューイが、力強く「彼を助けよう」といったふうなのではなく、あわあわしながら、脈がない、どうしようっ・・・アニー救急車を、そうだ心臓マッサージを、ってなってるのがまた。
例えばバットマンやアイアンマンはガジェットやスーツがなくても強いヒーローだ。
彼らがヒューイと同じ行動をとってもそれは彼らなら当然だというように見れたはず。
憧れつつもどこかで「自分とはちがう人間なんだ」と思いながら。
しかしヒューイの姿は、この最終局面にきてあまりにも身近に感じられ、それでいて現実的な理想の姿だった。
シーズン2はシーズン1配信の前にすでに制作決定していたらしい。
ヒューイでやれることって、ある意味ではもう全部やっちゃったのでは?思えるので次シーズンは1での高まりをあまり持ち込まないようにしたい。
▼最近
いったん、自分は真面目なのだと認めることにした。
真面目かつ頑固、なとこがあるのだと。
頑固はもともと自覚していたところなのだけど。
真面目というのは良いことであるように思う。
この言葉だけなら良いイメージしかない。
だから自分自身をそうと言うのはどうなんだって感じで、実際こんなグダグダな人間が真面目なわけなかろうとも思っていた。
自分の融通の効かなさをいうなら「真面目」ではなく「頑固」だろうと。
実際まちがいなく頑固ではあるし。
しかし同時に真面目でもあるのだろうと。
ここ最近、こうまで人様に言われたらそうなのかもしれないと考えを改めざるを得なくなった。
そして真面目というのは、自分が思っていたような、良いだけの要素ではないのだとも。
真面目というのはある種の、ある一面の正しさを量り評する言葉であると思う。
でもそれは例えば「正義」といった言葉と同じで、場合によって変わる。
正しさをふりかざして暴走することもあるという点でも同じじゃないかと思う。
自分は真面目なんかじゃない、むしろ不真面目だ、そんな自分ですらこれは正しいと思うことなのだから皆がやるべきことだろう。
そんなふうに「至らない自分」を免罪符に、結局自分の理想を人に押し付け勝ちだったんじゃないかと思う。
何が言いたいのかといえば職場のことなんだけど。
だからあの場においては自分は「真面目」に分類されるのだ。
入った当初はそのことを「楽だ」とも思っていた。
この程度で評価されるんだ、いいな、って。
しかしつい人のことを気にしすぎる、かつツッコミ気質であるのが災いして、「それどうなん・・・」がここ最近。
「ずっと見てきたけどそれはどうなんだい・・・」がいろいろ溜まってきて、ここ最近さまざまな面で小爆発をば。
なのでまずは変えようとするのではなく、変わる可能性はあるのか、を探るとこから始めてみる。
自分の能力を考慮してもそこから始めるのが妥当だと思う。
アマゾンオリジナルドラマ。
全8話一気に見てしまった。
以下ネタバレ有り。
内容はアメコミ原作スーパーヒーロー物。
しかしこの作品における”敵”はヒーローたちであり主役は普通の人間。
ヒーローに恨みをもつ者たちの戦いの物語なのだ。
この作品内のヒーローたち、特にトップにいる”セブン”なるヒーローチームは各々が強い能力を有している。
大企業に抱えられヒーローとしてタレントとして活動し強い支持をうけている。
が、その実情はなかなかの下衆野郎ぞろい。
それぞれに自尊心が強く、自己中心的な理由で人の命を平然と奪ったり、未熟な精神で自己の責任や弱さと向き合えなかったり、能力を悪用して下劣な趣味に走っていたり。
そんなセブンのひとりに主人公のヒューイは第1話で彼女を殺され復讐を始める。
この作品を見ていて生じる悪役(ヒーロー)たちへの嫌悪感がとにかくすごい。
ここ最近というか近年でダントツと思う。
悪は悪として描かれいれば、自分のなかの一般的な倫理道徳、正義とは別のところからの視点で見ることができる。
割り切れればキャラクターとしての魅力さえ見出すことができる。
しかしこの作品のヒーローたち(全員ではないけど)は妙にリアルな嫌さを感じてしまう。
表向きにはヒーロー活動はしているし、世間からの人気も絶大、各々が個性豊かに特殊な能力をもっている。
しかしヒーローらしい活動も、立ちふるまいも、コスチュームも、すべて企業がイメージとして作ったものだ。
彼らのおかげで実際社会的に助かっている事実もある。
みなが求めているヒーロー像を作り上げてはいる。
けど実情、彼らの中身は並の人間と変わらない。
それが大企業や世間に守られもちあげられ、結果肥大化した自尊心で歪んだ行動を平然と行うようになってしまっている。
そのことに気づき悩む者もいれば、憧れのままチームに入って失望する者もいる。
いろいろとショッキングな展開の多いドラマだけど、特に印象に残った場面が2つある。
ひとつはヒーローが一般人を見捨てる場面。
ハイジャックされたジャンボジェットにホームランダー(スーパーマン的な人。色々とヤバイ)とメイヴ(ワンダーウーマン的な人。比較的まとも。自身に飛行能力なし)がさっそうと駆けつけるも、操縦士と機長を殺されてしまう。
「これはもうムリだね」と早々に判断し引き上げようとするホームランダー。
さすがにどん引くメイヴ。
メイヴはせめて傍にいた少女とその母親だけでも助けようと訴えるがホームランダーは拒否。
「生存者がいたらこの失敗のことを話してしまうだろう?」と。
結局ヒーロー二人は乗客に背を向け飛び去っていくのだった・・・
ホームランダーはそういう奴とわかってはいたものの、それでも何か「見てはいけないもの」を見た気分になった。
もし助けられる命だけでも助けていれば、彼らはヒーローたちを責めはしなかったはず。
しかしホームランダーは人命よりも完璧なヒーローである自分を優先した。
人々を救う完全無欠な正義のヒーローであるというイメージのほうを守った。
それは実情を知っていれば嫌悪しか感じないけど、でもそのイメージこそはたしかに世間が、自分が求めているものなのかもしれないと思わされる。
何かしらの完全な、安心できるものに、寄りそい頼りたいという心。
それに裏切られたという気持ちは、結局自分の弱さから来るものなんじゃないだろうか。
正しさや強さや安心(だと思い込めること)を、自分以外の何かに期待しすぎる危うさや未熟さに気付かされた思いがする。
もうひとつは主人公で普通の人間であるヒューイが、恋人を殺した復讐の相手であるAトレイン(超高速で動けるヒーロー)と対峙した場面。
Aトレインは逆にヒューイを追い詰めるも、ヒーローの能力を高める薬を常用していたせいで心臓発作を起こす。
憎き相手、仇敵の自業自得な最期だ。
・・・ったはずなんだけど、ヒューイは動揺し、動揺して・・・仲間に「救急車を呼ぼう」と言う。
さらには心臓マッサージをほどこし始める。
さすがにハッとさせられた。
え、ヒューイ何を言い出・・・いや、そうか・・・そうだよな・・・って。
ヒューイは成り行きとはいえわりと序盤で別のヒーローを殺害している。
このドラマでは人がとにかく死ぬ、当たり前のように毎回簡単無残に人の死ぬさまが描かれる。
またAトレインは、故意ではないとはいえヒューイの恋人を殺し、後にそのことを不運な笑い話のように言い、謝罪を求めてきたヒューイの顔すらおぼえていないような人物だ。
そんな積み重ねがあっての最後のこのシーンは、なにか引き戻された感じになる。
しかし同時にまた・・・いやでもこれは、ヒューイが異質なんじゃないか?とも思う。
この場にはアニーというヒューイと通じ合ったヒーローもいる。
アニーはセブンに憧れて入ったものの、現実を知り、失望し、しかし強く立ち直り、本当に正しいことをなすためヒューイに協力するようになる。
そんなアニーもやはり「え、助けるの?」みたいなリアクションを取るのだ。
自分もこの場にいたら絶対アニーと同じだったはず。
だから本当のヒーローはヒューイのような人間なんだ、というのは簡単だけど、でもたしかに、そうなんだと思う。
そしてこの行動は、何かしらの特別な能力とちがって、自分にも出来得ることでもある。
だからこそ悩ましくむずかしいと感じる。
ありえないパワーに憧れるのではなく、自分でも取れるこの選択肢を取れるか?という問題だからだ。
これこそが「ヒーローになれるか?」という問いなのだと気付かされる。
この場面ヒューイが、力強く「彼を助けよう」といったふうなのではなく、あわあわしながら、脈がない、どうしようっ・・・アニー救急車を、そうだ心臓マッサージを、ってなってるのがまた。
例えばバットマンやアイアンマンはガジェットやスーツがなくても強いヒーローだ。
彼らがヒューイと同じ行動をとってもそれは彼らなら当然だというように見れたはず。
憧れつつもどこかで「自分とはちがう人間なんだ」と思いながら。
しかしヒューイの姿は、この最終局面にきてあまりにも身近に感じられ、それでいて現実的な理想の姿だった。
シーズン2はシーズン1配信の前にすでに制作決定していたらしい。
ヒューイでやれることって、ある意味ではもう全部やっちゃったのでは?思えるので次シーズンは1での高まりをあまり持ち込まないようにしたい。
▼最近
いったん、自分は真面目なのだと認めることにした。
真面目かつ頑固、なとこがあるのだと。
頑固はもともと自覚していたところなのだけど。
真面目というのは良いことであるように思う。
この言葉だけなら良いイメージしかない。
だから自分自身をそうと言うのはどうなんだって感じで、実際こんなグダグダな人間が真面目なわけなかろうとも思っていた。
自分の融通の効かなさをいうなら「真面目」ではなく「頑固」だろうと。
実際まちがいなく頑固ではあるし。
しかし同時に真面目でもあるのだろうと。
ここ最近、こうまで人様に言われたらそうなのかもしれないと考えを改めざるを得なくなった。
そして真面目というのは、自分が思っていたような、良いだけの要素ではないのだとも。
真面目というのはある種の、ある一面の正しさを量り評する言葉であると思う。
でもそれは例えば「正義」といった言葉と同じで、場合によって変わる。
正しさをふりかざして暴走することもあるという点でも同じじゃないかと思う。
自分は真面目なんかじゃない、むしろ不真面目だ、そんな自分ですらこれは正しいと思うことなのだから皆がやるべきことだろう。
そんなふうに「至らない自分」を免罪符に、結局自分の理想を人に押し付け勝ちだったんじゃないかと思う。
何が言いたいのかといえば職場のことなんだけど。
だからあの場においては自分は「真面目」に分類されるのだ。
入った当初はそのことを「楽だ」とも思っていた。
この程度で評価されるんだ、いいな、って。
しかしつい人のことを気にしすぎる、かつツッコミ気質であるのが災いして、「それどうなん・・・」がここ最近。
「ずっと見てきたけどそれはどうなんだい・・・」がいろいろ溜まってきて、ここ最近さまざまな面で小爆発をば。
なのでまずは変えようとするのではなく、変わる可能性はあるのか、を探るとこから始めてみる。
自分の能力を考慮してもそこから始めるのが妥当だと思う。
コメント
観ていて引き込まれると同時に、観ているのが辛くなりませんでしたか?
そういうのがなかったり、あっても出された答えにズレを感じたりすると、見るのが苦痛になって視聴をやめたりするときはあります。
こういうヒーローを使って人間の暗い面を描いたような作品は映画だと『ウォッチメン』というのがあり、またさまざまな作品でもいち要素としてはよく扱われていますが、それをここまで徹底したメインに据えてドラマで作ったものは私も初めてなんじゃないかと思います。