▼小説『黄泥街』(残雪)
読み終えた。
灰、汚物、汚水、害虫、病気、死体。
熱、疑念、執着、コウモリ、眠り、存在、非在。
それらの織り成す混沌が、終わりが近づくにつれどんどん加速していく。
「なぜこれを読み物として読めているのだろう?」てな疑問までわくほどに。
しかしそのころには怒涛で不可解な羅列に親しみさえ感じている。
そして唐突に物語は冒頭へと帰り、終わった。
街も人もずっと熱に浮かされているような状態なのに、なぜかどこか寒々しい。
例えば言葉は、どこかのだれかへ向かうべきためのものであるはずが、黄泥街の住人達から発せられる字面だけ見れば激しいそれらは、結局どこへもたどり着くことがない。
また日々は進むし人も死ぬが、そこに命や時間といった意味を感じることもない。
住人はただ日常の不満をひたすらに疑念と結び付け言葉を垂れ流していくだけ。
街は静かに理由もわからぬまま崩壊へ向かっていく。
一つの幻想小説として魅了された。
しかし『黄泥街』は作者の体験した文化大革命の混乱が元になっているらしいので、せっかくだからそこらへんを少し学んでいってみようと思う。
▼バラエティ『有田と週刊プロレスと』(&最近の職場について)
やっぱりすごくおもしろい。
有田の解説を聴いていると、改めてプロレスは絵画であり文学なのだなと思わされる(「プロレスは文学じゃない」と長州力は批判したようだけど)。
プロレスの一つの試合、その神髄を味わうには、背景と歴史を知ってこそなのだと。
この番組で前田日明がどういう男で、どんな歴史を歩んできたかを多少学んだ。
だから自分は前田日明になろうと思った。
今の職場でちょっと、自分がそんなふうになりつつある雰囲気を感じもするので。
自分を貫くか、ひたすら周囲に合わせていくか、人はどちらの生き方も選べる。
俺は前者なんだなと思った。
この番組を見て自覚した。
どちらかといえば、だけど。
もちろん基本は周囲に合わせるけど、譲れないところは譲れないし譲らない。
職場の風潮が「黙って従う」であろうが、おかしいことは「おかしい」って言うし、俺を従わせたかったら納得できる理由を示すなり、態度を見せるなりしろと言う。
上司先輩そんなことは関係ない。
それで煙たがるなら俺を使うな、馬鹿に従ってわざわざ遠回りなやり方を強制されたくないというだけの話。
とにかく、そこに入った人間が次々辞めていく・・・てなとこ手伝わされるようになり、「結局この馬鹿が原因じゃないの?」と思っている次第。
ここに入れ続けるならそのうち「そもそもこの馬鹿をリーダーにしたのだれ?なんの冗談?」まで言いかねない、俺は。
もう本人にはつい先日「いいかげんこの程度察してくれませんか?」みたいなことを言っちゃったし。
馬鹿だから理解してなさそうだけど。
そのくせほんとにマンガのキャラみたいに目上の人間にはいい顔しまくるから、俺のこともどんなふうに言われてることやらだ。
でも知らん。
まともな人間ならどちらに非があるかわかるだろうけど、そもそもが異常な職場なので、そのへんもあまり期待できない。
俺は俺でやっていくだけだ。
前田日明を思い出して。
前田日明 VS アンドレ・ザ・ジャイアント
https://www.youtube.com/watch?v=sRgswANayyA
▼甥っ子
今日は半日の半分を甥っ子(3歳)と過ごした。
二人で公園行って図書館行って電車で帰ってコンビニ行って家で遊んで一緒に昼寝した。
決しておとなしい子ではないけど図書館では静かだったしトイレも上手にしていた。
完全に大人からの見方だけど、やんちゃと扱いやすさのバランスがかなり良い子だと思う。
家ではけっこうきびしくしつけられてるらしい。
それを聴いているのもあって、余計に自分は甘い対応ばかりしてしまうのだけど、たまに会う分にはちょうどいいのかもしれない。
幼子には独自の世界があるので、話す内容からそれがどんなものか想像しながら合わせて会話するのがなかなか楽しい。
相手につき合いながらも、ときに新たな情報で誘導したりもして、多分いま彼の頭のなかはこんなふうなのではないだろうか・・・と考えたり。
家に来るとiPadでYouTubeのおもちゃ関係動画をとても見たがる。
でもたまに怖い動画なんかも出てきて、そういうのを見たがるわりに、あとでしっかり怖がるから、ちょっとからかいたくもなる。
「あんまり見てると夜こういうの来るよ?」とか言ったり。
それでまじめに不安がるのを見るのが正直楽しいんだけど、やっぱり気の毒なので、どうにかフォローする。
でそのフォローの参考先が、かつて自分が幼かったころ、同じように怖い思いをしたとき「そんなのきたら俺がやっつけてやるから」と言ってくれた親戚のお兄ちゃんだったりする。
そんなことを思い出していたら、一人で勝手に泣けてきたりもした。
読み終えた。
灰、汚物、汚水、害虫、病気、死体。
熱、疑念、執着、コウモリ、眠り、存在、非在。
それらの織り成す混沌が、終わりが近づくにつれどんどん加速していく。
「なぜこれを読み物として読めているのだろう?」てな疑問までわくほどに。
しかしそのころには怒涛で不可解な羅列に親しみさえ感じている。
そして唐突に物語は冒頭へと帰り、終わった。
街も人もずっと熱に浮かされているような状態なのに、なぜかどこか寒々しい。
例えば言葉は、どこかのだれかへ向かうべきためのものであるはずが、黄泥街の住人達から発せられる字面だけ見れば激しいそれらは、結局どこへもたどり着くことがない。
また日々は進むし人も死ぬが、そこに命や時間といった意味を感じることもない。
住人はただ日常の不満をひたすらに疑念と結び付け言葉を垂れ流していくだけ。
街は静かに理由もわからぬまま崩壊へ向かっていく。
一つの幻想小説として魅了された。
しかし『黄泥街』は作者の体験した文化大革命の混乱が元になっているらしいので、せっかくだからそこらへんを少し学んでいってみようと思う。
▼バラエティ『有田と週刊プロレスと』(&最近の職場について)
やっぱりすごくおもしろい。
有田の解説を聴いていると、改めてプロレスは絵画であり文学なのだなと思わされる(「プロレスは文学じゃない」と長州力は批判したようだけど)。
プロレスの一つの試合、その神髄を味わうには、背景と歴史を知ってこそなのだと。
この番組で前田日明がどういう男で、どんな歴史を歩んできたかを多少学んだ。
だから自分は前田日明になろうと思った。
今の職場でちょっと、自分がそんなふうになりつつある雰囲気を感じもするので。
自分を貫くか、ひたすら周囲に合わせていくか、人はどちらの生き方も選べる。
俺は前者なんだなと思った。
この番組を見て自覚した。
どちらかといえば、だけど。
もちろん基本は周囲に合わせるけど、譲れないところは譲れないし譲らない。
職場の風潮が「黙って従う」であろうが、おかしいことは「おかしい」って言うし、俺を従わせたかったら納得できる理由を示すなり、態度を見せるなりしろと言う。
上司先輩そんなことは関係ない。
それで煙たがるなら俺を使うな、馬鹿に従ってわざわざ遠回りなやり方を強制されたくないというだけの話。
とにかく、そこに入った人間が次々辞めていく・・・てなとこ手伝わされるようになり、「結局この馬鹿が原因じゃないの?」と思っている次第。
ここに入れ続けるならそのうち「そもそもこの馬鹿をリーダーにしたのだれ?なんの冗談?」まで言いかねない、俺は。
もう本人にはつい先日「いいかげんこの程度察してくれませんか?」みたいなことを言っちゃったし。
馬鹿だから理解してなさそうだけど。
そのくせほんとにマンガのキャラみたいに目上の人間にはいい顔しまくるから、俺のこともどんなふうに言われてることやらだ。
でも知らん。
まともな人間ならどちらに非があるかわかるだろうけど、そもそもが異常な職場なので、そのへんもあまり期待できない。
俺は俺でやっていくだけだ。
前田日明を思い出して。
前田日明 VS アンドレ・ザ・ジャイアント
https://www.youtube.com/watch?v=sRgswANayyA
▼甥っ子
今日は半日の半分を甥っ子(3歳)と過ごした。
二人で公園行って図書館行って電車で帰ってコンビニ行って家で遊んで一緒に昼寝した。
決しておとなしい子ではないけど図書館では静かだったしトイレも上手にしていた。
完全に大人からの見方だけど、やんちゃと扱いやすさのバランスがかなり良い子だと思う。
家ではけっこうきびしくしつけられてるらしい。
それを聴いているのもあって、余計に自分は甘い対応ばかりしてしまうのだけど、たまに会う分にはちょうどいいのかもしれない。
幼子には独自の世界があるので、話す内容からそれがどんなものか想像しながら合わせて会話するのがなかなか楽しい。
相手につき合いながらも、ときに新たな情報で誘導したりもして、多分いま彼の頭のなかはこんなふうなのではないだろうか・・・と考えたり。
家に来るとiPadでYouTubeのおもちゃ関係動画をとても見たがる。
でもたまに怖い動画なんかも出てきて、そういうのを見たがるわりに、あとでしっかり怖がるから、ちょっとからかいたくもなる。
「あんまり見てると夜こういうの来るよ?」とか言ったり。
それでまじめに不安がるのを見るのが正直楽しいんだけど、やっぱり気の毒なので、どうにかフォローする。
でそのフォローの参考先が、かつて自分が幼かったころ、同じように怖い思いをしたとき「そんなのきたら俺がやっつけてやるから」と言ってくれた親戚のお兄ちゃんだったりする。
そんなことを思い出していたら、一人で勝手に泣けてきたりもした。
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