▼映画『男はつらいよ 寅次郎恋歌』
1971年12月29日公開シリーズ第8作。
寅さん意外とフラれてない説ある。
今作なんかは男女関係のことで何か起きたり言われたりしたわけでもないのに、寅さんから「またフラれちゃったよ」なんて笑顔で身を引く感じだったし。
たしかにある意味ではフラれたんだけど、今回はずいぶん大人なフラれっぷりだったように思う。
マドンナは池内淳子が演じる未亡人の貴子。
貴子は柴又へ越してきたばかりで喫茶店を経営しており、周囲の心配どおりに寅さんと知り合ってしまう。
貴子のひとり息子が友だちをつくるきっかけとなったり、寅さんは貴子と徐々に距離を詰めていく。
このマドンナとの話が始まる前に、寅さんは妻を亡くしたばかりの博の父親(志村喬)と交流しており、そこで当たり前の家庭の尊さを説かれる。
厳格なあまり温かい家庭を築けなかった博の父親が、ふと思い出すのは、むかしに旅先で見たリンドウの咲き乱れる庭、夕餉時のその家からもれる灯りと家族の談笑の声だと。
人間は人間の運命に逆らってはいけない、と言う。
「年寄りひとりじゃさびしいだろう」と頼まれもしないのにずけずけと上がりこみ、遠慮なく飯をごちそうになって買い物も一緒にいって近所の人たちとも仲良くなる、そんな寅さんにだからこそもらした、家族のだれも知らない博の父親の悔恨の念だ。
寅さんは人から聞いた話を、まるで自分発のように話すことが多いのだけど、この旅先の家庭の話もそのネタのひとつとなる。
とらやへ帰っては自身が経験して感じたことのように披露する。
その場には博もいて、博自身は父親のことを冷たい人物だと、家族とくに母親にひどい仕打ちをした人間だと思っているのだけど、そうとは知らぬまま寅さんを通じ、父親の話を聴いている。
そのあと柴又へきた博の父親を、寅さんは相変わらずな調子で迎え、その孫である博の息子を抱かせるまでにいたるのだ。
「先生、ダメだよそんな仏頂面してもっとやさしい顔してあげなくっちゃ」「博たちがなつかないのもムリはないよ。博、おまえ子供のころからぜんぜんなつかないだろこの人に」「はいはいバアーっていってバアーって」
寅さんの言葉にぎこちなく孫をあやす様子に、一同は笑い、こんな父親の姿をみるのは初めてであろう博はおどろいたように吹きだし、そんな博のうつむいた笑顔をさくらがうかがっている。
人間のさだめ人間らしい生き様の場面。
寅さんはそんなふうに他人同士の垣根は意図せずうまいことぶっこわすのに、自分のこととなると・・・ってところがまたある意味ではこの人の魅力であるのかもしれない。
しかし今作の寅さんのフラれようは特殊だったと思う。
マドンナ貴子と自分の生き様があまりにちがうということに、寅さんが気付いて身を引いた形だろうか。
博の父親の話を聞いて、寅さんは一般的な家庭にあこがれをもった。
でも貴子は、女手一つで息子を育て、店を切り盛りし、その重圧となっているのはやはりお金の問題。
そんな貴子が、訪ねてきた寅さんに、実はずっと旅人にあこがれていて、一緒に旅ができたらいいなとまで言う。
それからまた家賃の催促の電話をうけている間に、寅さんは静かに貴子のもとを離れるのだ。
正直、ここらへんの寅さんの心情は、自分には追いきれていない部分がある。
なにか流れ的に不自然とか変だとかは思わないのだけど、はっきりしないところがある。
ごく単純に考えれば、貴子が一番苦しんでいるのはお金のことで、自分はその力になれるような人間ではない、だから離れたのか。
それとも、寅さんが一般的な家庭にあこがれているのと同じように、貴子もまた寅さんのような旅人にあこがれている、そのことになにかしら得るものがあったからなのか。
それとも、貴子がそうしたことを口にするのは、逆に、貴子がどんなに苦しかろうがいまの生活を捨てる気ががなく、また寅さん自身もそうであることに気付いたからなのか。
このあと、とらやへ帰った寅さんは「またフラれちゃったよ」と笑って言う。
大分特殊なパターンに思う。
そしてさくらと二人きりになったとき、
「兄ちゃんのこんな暮らしがうらやましいか?そんなふうに思ったことがあるかい?」
と訊く。
やはり貴子の言葉の真意、またそこから感じた自身の気持ちを探りたかったのだろうか。
しかしさくらは、
「あるわ。一度はお兄ちゃんと交代して、あたしのこと心配させてやりたいわ」
と、さくら個人の、肉親のやさしさでもって応えるのだ(この願いは第12作でかなえられる)。
今作は恋愛事よりもその先にある家庭がテーマだったように思う。
そして結局、主役は家庭をもたない選択をして物語は終わる。
これをどう捉えるべきなのか、今の自分にはわからない。
それでいてなにか、だれかが、はっきり間違っているとも思えない。
まあその、メタなことをいえばまだシリーズ第8作目だし、この時点の寅さんはまだ年齢的にギリ大丈夫っぽいし・・・?てのもあり。
いやしかし、やはりつまるところ人間は、人間の運命に逆らっては人間らしい幸せはつかめず、そしてだからこそ、そうでない生き様にもドラマが生まれ、それがまた人を引き付けるのではないだろうか。
とか今はそんなふうに思うだけだ。
・・・という上記が自分の感想だけど、どうしても釈然としなかったので、参考に人様の感想ものぞいてみた。
とくに寅さんが貴子から離れた心情について読み、そして再び最後の寅さんと貴子の場面を見返してみて、なんかもう恥ずかしくなった。
たしかに寅さんが貴子と自分の「旅」についての考え方のちがいに顔色を変える場面がある。
自分はその表情をべつの捉え方で見ていた。
しかし寅さんのさびしさに気付けなかったことは、それだけ自分が幸せに真っ当に生きてきた証であるのかもしれない。
今作はシリーズ中でも屈指の人と語り合ってみたい作品だ。
▼アニメ『魔法が解けて』
シーズン1第3話「闇のプリンセス」
全然内容とは関係ないけど、見ていてふと、もっとはちゃめちゃに生きてもいいはずだよな・・・となんだか思えた。
最近いろいろと疲れてしまうようなことが続いているせいかもしれない。
べつにいきなり人生を変えるほど破天荒になるつもりもないけど、でもなんとなく、こんなふうでもいいんだよなーと思えたことで少し楽になった気がした。
1971年12月29日公開シリーズ第8作。
寅さん意外とフラれてない説ある。
今作なんかは男女関係のことで何か起きたり言われたりしたわけでもないのに、寅さんから「またフラれちゃったよ」なんて笑顔で身を引く感じだったし。
たしかにある意味ではフラれたんだけど、今回はずいぶん大人なフラれっぷりだったように思う。
マドンナは池内淳子が演じる未亡人の貴子。
貴子は柴又へ越してきたばかりで喫茶店を経営しており、周囲の心配どおりに寅さんと知り合ってしまう。
貴子のひとり息子が友だちをつくるきっかけとなったり、寅さんは貴子と徐々に距離を詰めていく。
このマドンナとの話が始まる前に、寅さんは妻を亡くしたばかりの博の父親(志村喬)と交流しており、そこで当たり前の家庭の尊さを説かれる。
厳格なあまり温かい家庭を築けなかった博の父親が、ふと思い出すのは、むかしに旅先で見たリンドウの咲き乱れる庭、夕餉時のその家からもれる灯りと家族の談笑の声だと。
人間は人間の運命に逆らってはいけない、と言う。
「年寄りひとりじゃさびしいだろう」と頼まれもしないのにずけずけと上がりこみ、遠慮なく飯をごちそうになって買い物も一緒にいって近所の人たちとも仲良くなる、そんな寅さんにだからこそもらした、家族のだれも知らない博の父親の悔恨の念だ。
寅さんは人から聞いた話を、まるで自分発のように話すことが多いのだけど、この旅先の家庭の話もそのネタのひとつとなる。
とらやへ帰っては自身が経験して感じたことのように披露する。
その場には博もいて、博自身は父親のことを冷たい人物だと、家族とくに母親にひどい仕打ちをした人間だと思っているのだけど、そうとは知らぬまま寅さんを通じ、父親の話を聴いている。
そのあと柴又へきた博の父親を、寅さんは相変わらずな調子で迎え、その孫である博の息子を抱かせるまでにいたるのだ。
「先生、ダメだよそんな仏頂面してもっとやさしい顔してあげなくっちゃ」「博たちがなつかないのもムリはないよ。博、おまえ子供のころからぜんぜんなつかないだろこの人に」「はいはいバアーっていってバアーって」
寅さんの言葉にぎこちなく孫をあやす様子に、一同は笑い、こんな父親の姿をみるのは初めてであろう博はおどろいたように吹きだし、そんな博のうつむいた笑顔をさくらがうかがっている。
人間のさだめ人間らしい生き様の場面。
寅さんはそんなふうに他人同士の垣根は意図せずうまいことぶっこわすのに、自分のこととなると・・・ってところがまたある意味ではこの人の魅力であるのかもしれない。
しかし今作の寅さんのフラれようは特殊だったと思う。
マドンナ貴子と自分の生き様があまりにちがうということに、寅さんが気付いて身を引いた形だろうか。
博の父親の話を聞いて、寅さんは一般的な家庭にあこがれをもった。
でも貴子は、女手一つで息子を育て、店を切り盛りし、その重圧となっているのはやはりお金の問題。
そんな貴子が、訪ねてきた寅さんに、実はずっと旅人にあこがれていて、一緒に旅ができたらいいなとまで言う。
それからまた家賃の催促の電話をうけている間に、寅さんは静かに貴子のもとを離れるのだ。
正直、ここらへんの寅さんの心情は、自分には追いきれていない部分がある。
なにか流れ的に不自然とか変だとかは思わないのだけど、はっきりしないところがある。
ごく単純に考えれば、貴子が一番苦しんでいるのはお金のことで、自分はその力になれるような人間ではない、だから離れたのか。
それとも、寅さんが一般的な家庭にあこがれているのと同じように、貴子もまた寅さんのような旅人にあこがれている、そのことになにかしら得るものがあったからなのか。
それとも、貴子がそうしたことを口にするのは、逆に、貴子がどんなに苦しかろうがいまの生活を捨てる気ががなく、また寅さん自身もそうであることに気付いたからなのか。
このあと、とらやへ帰った寅さんは「またフラれちゃったよ」と笑って言う。
大分特殊なパターンに思う。
そしてさくらと二人きりになったとき、
「兄ちゃんのこんな暮らしがうらやましいか?そんなふうに思ったことがあるかい?」
と訊く。
やはり貴子の言葉の真意、またそこから感じた自身の気持ちを探りたかったのだろうか。
しかしさくらは、
「あるわ。一度はお兄ちゃんと交代して、あたしのこと心配させてやりたいわ」
と、さくら個人の、肉親のやさしさでもって応えるのだ(この願いは第12作でかなえられる)。
今作は恋愛事よりもその先にある家庭がテーマだったように思う。
そして結局、主役は家庭をもたない選択をして物語は終わる。
これをどう捉えるべきなのか、今の自分にはわからない。
それでいてなにか、だれかが、はっきり間違っているとも思えない。
まあその、メタなことをいえばまだシリーズ第8作目だし、この時点の寅さんはまだ年齢的にギリ大丈夫っぽいし・・・?てのもあり。
いやしかし、やはりつまるところ人間は、人間の運命に逆らっては人間らしい幸せはつかめず、そしてだからこそ、そうでない生き様にもドラマが生まれ、それがまた人を引き付けるのではないだろうか。
とか今はそんなふうに思うだけだ。
・・・という上記が自分の感想だけど、どうしても釈然としなかったので、参考に人様の感想ものぞいてみた。
とくに寅さんが貴子から離れた心情について読み、そして再び最後の寅さんと貴子の場面を見返してみて、なんかもう恥ずかしくなった。
たしかに寅さんが貴子と自分の「旅」についての考え方のちがいに顔色を変える場面がある。
自分はその表情をべつの捉え方で見ていた。
しかし寅さんのさびしさに気付けなかったことは、それだけ自分が幸せに真っ当に生きてきた証であるのかもしれない。
今作はシリーズ中でも屈指の人と語り合ってみたい作品だ。
▼アニメ『魔法が解けて』
シーズン1第3話「闇のプリンセス」
全然内容とは関係ないけど、見ていてふと、もっとはちゃめちゃに生きてもいいはずだよな・・・となんだか思えた。
最近いろいろと疲れてしまうようなことが続いているせいかもしれない。
べつにいきなり人生を変えるほど破天荒になるつもりもないけど、でもなんとなく、こんなふうでもいいんだよなーと思えたことで少し楽になった気がした。
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