▼映画『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』
1975年8月2日公開シリーズ第15作。
松岡リリー(浅丘ルリ子)マドンナ2作目。
今作でもまた、前リリー登場作同様、最後に
なっ、えっ・・・なして、なしてなの寅さん!?!?!?
なる。
もうほんともう、ほんとに。
あの個人的に、あればいいのにとたびたび思っていた、周囲からの直接的なサポートも今回はがっつりあったというのに。
寅さんとリリー二人の様子をみて、これはもう・・・となったさくら。
さくらはリリーに兄との結婚の意思を確認し、リリーもそれにうなずく。
だから俺は、ああ、そっかこれが最終回だったのか、いやもういいよ、これ最終作にしようよマジで・・・いやマジで。
だってもう何もないじゃん、これ以上何があるというの?
本気で思ったのに。
それなのに、
「おい、リリー、おまえも悪い冗談はやめろよ、ええ?まわりはほらシロウトだから、えー?みんな真にうけちゃってるじゃねえかよ」
「・・・・・・そっ、冗談にきまってるじゃない」
そしてリリーは去って行ってしまう。
このあともさくらと博の「追いかけるべき」と虎次郎の背中を強く強く押す場面がある。
それなのに寅さんは奥に引っ込んでいってしまう。
どうしたらそこまで意気地なしになれるのか・・・なんて正直俺は思ってしまった。
それが寅さんだといわれても、どうしてなのかがわからない。
そしたら、寅さんは、リリーは頭のいい強い女だと。
自分みたいなバカとくっついて幸せになれるわけがない、と言う。
さくらは「・・・そうかしら」と返すので精一杯だった。
自分がもしさくらの立場だったら、さくらのような疑問のひと言か、それか浮ついたようなことしか言えない。
寅さんという人間の素晴らしさを、現実の生活においても価値あるものだとする確かな言葉が俺には見つからないだろうから。
そんなことじゃないはずなのに、とは気持ちでは思いながらも、やっぱりさくらのようなひと言しか言えないんじゃないかと思う。
寅さんは恋をしているときはまったくの前後不覚のようになる。
しかしいざ相手から迫られたり、こうした現実的な結婚の話になってくると、とたんに目が覚めたようになり尻込みしだす。
それは結局、単純な話、寅さんが自分というものをある面ではよくわかっているからなのかもしれない。
バカで渡世人の自分のような人間が人様に迷惑をかけてはいけない、とよく寅さんが口にする、それそのままなのだと。
それでもやっぱり悩ましく感じるのは、寅さんは自己評価が低すぎるんじゃないか、自身の価値を一面的に考えすぎているんじゃないかと、見ているほうとしてはどうしても思えてしまうからだ。
また自分がそう思いたくなるのは、人間のより高い価値というようなものを、お金とか生活力以外のところに求めたい心があるからなのかもしれない。
考えてみると、寅さんは精神的にはともかく、経済的には家族に芯から甘えるってことをしてきていない。
まあ柴又へ帰ってきているときは食っちゃ寝するか恋するか、って状態にはなるけど、それも一時のことと割り切っているようでもあるし。
寅さんは若い時分に家をとび出て以来堅気の道を外れ世間を渡り歩いてきた。
そんな人間であるからこそ、人様に迷惑をかけず、ひとりで生きていく・・・というようなことは、寅さんが思う自分が世間に在ることを許される唯一の生き方、人間であることの証しとする最後の矜持なのかもしれない。
寅さんのような人が結婚するとなれば、周囲の経済的サポートは不可欠になる。
俺はそれでいいと思う。
もし自分の場合そうした助けが発生したら、いずれの機会に自分が同じように周囲に返せばいいと考えるから。
でも寅さんはそうじゃないってところがもしかしたら意外と大きく、己のような人間がという思い込みが、結局のところこのシリーズにとって最大の壁であるのかも。
と同時に、上にも書いたように見ている自分としては、この世界は、世間は多分それだけじゃないよ、ってことをこの物語を通じて見出したいから、車寅次郎の恋愛を応援したくなるのだろうと思う。
今作にはゲストで船越英二が出ている。
自分にとってのなじみ深いのは『暴れん坊将軍』のじい役で、息子の船越英一郎とぜんぜん似てないと思ってた。
でも今作では、ほんとにいくつかの短い場面だけど、ああいま英一郎いたわ・・・ってなるのがおもしろかった。
また場末の店でリリーが歌うことにやるせなさを感じ、もし大舞台でリリーが歌ったら・・・の想像を寅さんがとらやの面々に披露するくだりは、寅さんのやさしさと思いに満ちあふれていた。
”寅さんのアリア”と呼ばれ、シリーズでも屈指の名場面とされているらしい。
1975年8月2日公開シリーズ第15作。
松岡リリー(浅丘ルリ子)マドンナ2作目。
今作でもまた、前リリー登場作同様、最後に
なっ、えっ・・・なして、なしてなの寅さん!?!?!?
なる。
もうほんともう、ほんとに。
あの個人的に、あればいいのにとたびたび思っていた、周囲からの直接的なサポートも今回はがっつりあったというのに。
寅さんとリリー二人の様子をみて、これはもう・・・となったさくら。
さくらはリリーに兄との結婚の意思を確認し、リリーもそれにうなずく。
だから俺は、ああ、そっかこれが最終回だったのか、いやもういいよ、これ最終作にしようよマジで・・・いやマジで。
だってもう何もないじゃん、これ以上何があるというの?
本気で思ったのに。
それなのに、
「おい、リリー、おまえも悪い冗談はやめろよ、ええ?まわりはほらシロウトだから、えー?みんな真にうけちゃってるじゃねえかよ」
「・・・・・・そっ、冗談にきまってるじゃない」
そしてリリーは去って行ってしまう。
このあともさくらと博の「追いかけるべき」と虎次郎の背中を強く強く押す場面がある。
それなのに寅さんは奥に引っ込んでいってしまう。
どうしたらそこまで意気地なしになれるのか・・・なんて正直俺は思ってしまった。
それが寅さんだといわれても、どうしてなのかがわからない。
そしたら、寅さんは、リリーは頭のいい強い女だと。
自分みたいなバカとくっついて幸せになれるわけがない、と言う。
さくらは「・・・そうかしら」と返すので精一杯だった。
自分がもしさくらの立場だったら、さくらのような疑問のひと言か、それか浮ついたようなことしか言えない。
寅さんという人間の素晴らしさを、現実の生活においても価値あるものだとする確かな言葉が俺には見つからないだろうから。
そんなことじゃないはずなのに、とは気持ちでは思いながらも、やっぱりさくらのようなひと言しか言えないんじゃないかと思う。
寅さんは恋をしているときはまったくの前後不覚のようになる。
しかしいざ相手から迫られたり、こうした現実的な結婚の話になってくると、とたんに目が覚めたようになり尻込みしだす。
それは結局、単純な話、寅さんが自分というものをある面ではよくわかっているからなのかもしれない。
バカで渡世人の自分のような人間が人様に迷惑をかけてはいけない、とよく寅さんが口にする、それそのままなのだと。
それでもやっぱり悩ましく感じるのは、寅さんは自己評価が低すぎるんじゃないか、自身の価値を一面的に考えすぎているんじゃないかと、見ているほうとしてはどうしても思えてしまうからだ。
また自分がそう思いたくなるのは、人間のより高い価値というようなものを、お金とか生活力以外のところに求めたい心があるからなのかもしれない。
考えてみると、寅さんは精神的にはともかく、経済的には家族に芯から甘えるってことをしてきていない。
まあ柴又へ帰ってきているときは食っちゃ寝するか恋するか、って状態にはなるけど、それも一時のことと割り切っているようでもあるし。
寅さんは若い時分に家をとび出て以来堅気の道を外れ世間を渡り歩いてきた。
そんな人間であるからこそ、人様に迷惑をかけず、ひとりで生きていく・・・というようなことは、寅さんが思う自分が世間に在ることを許される唯一の生き方、人間であることの証しとする最後の矜持なのかもしれない。
寅さんのような人が結婚するとなれば、周囲の経済的サポートは不可欠になる。
俺はそれでいいと思う。
もし自分の場合そうした助けが発生したら、いずれの機会に自分が同じように周囲に返せばいいと考えるから。
でも寅さんはそうじゃないってところがもしかしたら意外と大きく、己のような人間がという思い込みが、結局のところこのシリーズにとって最大の壁であるのかも。
と同時に、上にも書いたように見ている自分としては、この世界は、世間は多分それだけじゃないよ、ってことをこの物語を通じて見出したいから、車寅次郎の恋愛を応援したくなるのだろうと思う。
今作にはゲストで船越英二が出ている。
自分にとってのなじみ深いのは『暴れん坊将軍』のじい役で、息子の船越英一郎とぜんぜん似てないと思ってた。
でも今作では、ほんとにいくつかの短い場面だけど、ああいま英一郎いたわ・・・ってなるのがおもしろかった。
また場末の店でリリーが歌うことにやるせなさを感じ、もし大舞台でリリーが歌ったら・・・の想像を寅さんがとらやの面々に披露するくだりは、寅さんのやさしさと思いに満ちあふれていた。
”寅さんのアリア”と呼ばれ、シリーズでも屈指の名場面とされているらしい。
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