今日は帰って「水戸黄門」見た。
本厚木はババア。
駅前で路上ミュージシャンよろしく三味線弾くババアを見る。
かなり激しく素人が聴く限りでは素直に上手い。
なんなんだババア。
どしたんだババア。
いかすぜ。
「水戸黄門」は、芝居になった漫遊記(伊勢)。
格さん(横内正版)に奥さんがいると知った。
深雪というなかなかの美人。
今回でその奥さんのそっくりさんが登場したことで知ったのだ。
演じているのは岩井友見という女優さん。
調べてみたら「独占!女の60分」の司会をしていた人ということで・・・・・あああーっと。
あー・・・
また一つどうでもいいことを知ってしまった(まあいいけど)。
創作活動は、頓挫。
途中まで書いてた短編、改めて冷静に最初から読み直してみて・・・・・・・あれ?なんでこいつこんなことするの?こうしないの?
みたいなことに気付く。
うん。
頓挫。
んー・・・・・
今回はだから動機だ。
人物の動機をちゃんと設定して、確認して、そんでやってないからこうなったんだよ。
これじゃオチまでいかないじゃんって、まあ途中でも気付いてよかったよ・・・。
だからこうまず動機を、ちゃんとして。
ちゃんとしてから書いて。
あとついでに先日の「塔の上のラプンツェル」、あれもプロットの段階で何が足りなかったから、ああなったのか。
自分的に不満が発生してしまったのかを考えてみる。
例えば単純な作りであれば、作品世界には過去、現在、未来があり、この現在から未来までの間を物語のメインの時間としているのが普通。
そして現在から未来、物語の始まりから終わりまでにどういう変化があるか、この過程に不自然はないかを考えて、特に問題なければ大丈夫だよねーってなるんだと思う。
「塔の上のラプンツェル」では、ラプンツェルが閉じ込められていた塔から脱出して、自分を騙して閉じ込めていたニセ母を倒して、めでたしめでたしとなった。
何がいけないというんだ。
だからその現在、物語が既に始まっている状態に至るまでの時間に何があったのか。
何があったから現在こうなっているのか、っていうことを考えたとき、過去が物語の世界設定において重要になってくるんじゃないか。
スタート時に何故ラプンツェルが塔にいたのかは、魔法の力を独り占めしようとたくらんだニセ母にさらわれて軟禁されていたからだ。
考えるほどのことでもない。
今回不満を持ったのはラプンツェルとニセ母の関係と決着についてだ。
だってラプンツェル結構普通に良い子ってことは、そこそこの教育されてきたんじゃね?思ったし。
ラプンツェル結構普通にニセ母に懐いてますってことは、どうあれ彼女らの間に少なからず楽しい思い出だってあったんじゃね?って過去を想像できるじゃないかーってことだよ。
それは物語の中で明確に描かれていなくっても、この現在があるなら、こういう過去があって然るべきなんじゃないの?って普通に見る側に想像させる要素であって、ここをきちんと踏まえた上で現在から未来へ至る動きを構築するべきだったんじゃないのかと思う。
だから、過去は大事、と。
あともう一ついえば、これが本当に低年齢向きな、大雑把な表現の物語(全編ひらがなの絵本レベルの)であったなら、そこまで考える必要はなかったのかも知れない。
悪い女の人は罰せられました、自業自得でした、めでたしめでたし、で終わりでいい。
でもこの作品はそこまで目線低い作りでもなかったもんだから、だったらこの擬似母娘問題もちゃんと答え見せてくれんだろうなーって、期待しちゃったんだよな・・・。
いーんすよおとぎ話なんすから、悪者は倒されて終わりでー、とかもし言われても、でも最近のさーこういう3Dアニメおとぎ話ってさー、心の機微描くとこはちゃんと描いたりしてるじゃん、表情もすっげー豊かだし色んな演出で内面表現したりしてるじゃん、でその一方で肝心だと思ったところを「まあおとぎ話だから」で済ませられたりすると、なんかバランス悪くね?って思っちゃうんだ。
だからまあそういうことだな。
寝よう。
本厚木はババア。
駅前で路上ミュージシャンよろしく三味線弾くババアを見る。
かなり激しく素人が聴く限りでは素直に上手い。
なんなんだババア。
どしたんだババア。
いかすぜ。
「水戸黄門」は、芝居になった漫遊記(伊勢)。
格さん(横内正版)に奥さんがいると知った。
深雪というなかなかの美人。
今回でその奥さんのそっくりさんが登場したことで知ったのだ。
演じているのは岩井友見という女優さん。
調べてみたら「独占!女の60分」の司会をしていた人ということで・・・・・あああーっと。
あー・・・
また一つどうでもいいことを知ってしまった(まあいいけど)。
創作活動は、頓挫。
途中まで書いてた短編、改めて冷静に最初から読み直してみて・・・・・・・あれ?なんでこいつこんなことするの?こうしないの?
みたいなことに気付く。
うん。
頓挫。
んー・・・・・
今回はだから動機だ。
人物の動機をちゃんと設定して、確認して、そんでやってないからこうなったんだよ。
これじゃオチまでいかないじゃんって、まあ途中でも気付いてよかったよ・・・。
だからこうまず動機を、ちゃんとして。
ちゃんとしてから書いて。
あとついでに先日の「塔の上のラプンツェル」、あれもプロットの段階で何が足りなかったから、ああなったのか。
自分的に不満が発生してしまったのかを考えてみる。
例えば単純な作りであれば、作品世界には過去、現在、未来があり、この現在から未来までの間を物語のメインの時間としているのが普通。
そして現在から未来、物語の始まりから終わりまでにどういう変化があるか、この過程に不自然はないかを考えて、特に問題なければ大丈夫だよねーってなるんだと思う。
「塔の上のラプンツェル」では、ラプンツェルが閉じ込められていた塔から脱出して、自分を騙して閉じ込めていたニセ母を倒して、めでたしめでたしとなった。
何がいけないというんだ。
だからその現在、物語が既に始まっている状態に至るまでの時間に何があったのか。
何があったから現在こうなっているのか、っていうことを考えたとき、過去が物語の世界設定において重要になってくるんじゃないか。
スタート時に何故ラプンツェルが塔にいたのかは、魔法の力を独り占めしようとたくらんだニセ母にさらわれて軟禁されていたからだ。
考えるほどのことでもない。
今回不満を持ったのはラプンツェルとニセ母の関係と決着についてだ。
だってラプンツェル結構普通に良い子ってことは、そこそこの教育されてきたんじゃね?思ったし。
ラプンツェル結構普通にニセ母に懐いてますってことは、どうあれ彼女らの間に少なからず楽しい思い出だってあったんじゃね?って過去を想像できるじゃないかーってことだよ。
それは物語の中で明確に描かれていなくっても、この現在があるなら、こういう過去があって然るべきなんじゃないの?って普通に見る側に想像させる要素であって、ここをきちんと踏まえた上で現在から未来へ至る動きを構築するべきだったんじゃないのかと思う。
だから、過去は大事、と。
あともう一ついえば、これが本当に低年齢向きな、大雑把な表現の物語(全編ひらがなの絵本レベルの)であったなら、そこまで考える必要はなかったのかも知れない。
悪い女の人は罰せられました、自業自得でした、めでたしめでたし、で終わりでいい。
でもこの作品はそこまで目線低い作りでもなかったもんだから、だったらこの擬似母娘問題もちゃんと答え見せてくれんだろうなーって、期待しちゃったんだよな・・・。
いーんすよおとぎ話なんすから、悪者は倒されて終わりでー、とかもし言われても、でも最近のさーこういう3Dアニメおとぎ話ってさー、心の機微描くとこはちゃんと描いたりしてるじゃん、表情もすっげー豊かだし色んな演出で内面表現したりしてるじゃん、でその一方で肝心だと思ったところを「まあおとぎ話だから」で済ませられたりすると、なんかバランス悪くね?って思っちゃうんだ。
だからまあそういうことだな。
寝よう。
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