今日はダラダラ過ごした。
「相棒」見た。
 
 
 
「相棒」は、第一シリーズ最後の前と最後のやつ。
面白かった。
長門裕之が面白かった。
 
 
かの三好一郎は、
「もっと他人の痛みを知る女になれ!」
って、撮影用ライトで大乱真理子の側頭部ひっぱたいた後絶叫したんだけど(それが元で大乱真理子は入院した。ちなみに三好一郎が怒った理由は彼女がAVの撮影中にウ○コを食べるのを拒否したから)、これを優しさと見るかどうかは人によると思う。
とにかく、最近は特に世の中から優しさが失せていると思うのだ。
こんなに他人に優しくなくそれでいて優しさに餓えている自分が言うのだから間違い無い。
でも現実世界の優しさ問題には今は触れないでおきたい。
なんかさすがに、お前が言うか?って自分でも思えてくるだろうから。
でもフィクションの中でのっていうかまあ、主にはアニメ、そういう世界の中から当たり前の優しさが失せていたり、グズグズになっていたりするのを見ると、絶望的な気持ちになるんだ。
お、絶望的になれるチャンスだぞ?っていう、俺嘆きレーダーみたいなのが反応するから、そうなるのだろうよ。
まあそれはいいとして、でも、どうなの?って。

基本中の基本、自分が人にこういうことされたらどう思うの?とか、自分の親しい人間がこういう人だったら残念な気持ちにならない?とか、そういうことを考えた上でのシーンなのかよスットコドッコイな作品ばかりじゃないか。
そのスットコドッコイが大々的風評的にはザ・善みたいに扱われてるから、俺レーダーが、んー!んー!ぷふーん!なるんじゃないか。
もちろん不愉快なシーンをやるなってことじゃない、しかし不愉快ってのは愉快が何なんのかハッキリしてるからこその不愉快であるわけなんだから。
それなのに作品においての愉快が、はぁ?なことだったりとか、不愉快そのものがスルーされてたりすると、もう何がなにやらわからなくなるという。
そんでも最後は恋愛恋愛してればいいんか?愛や勇気を叫べば良かったよーなるんか?ってのがもうほんと、わっけわからんってことよ。
いやもうふわふわし過ぎだろって。

不愉快や過ち要素にはわりと強めの意味があって然るべきだろうに。
増して主役が作中で解決すべき事柄なら尚更だ。
それを最後までほったらかして、なに、わっほー♪みたいに終わられても、はぁぁ・・・ふぅ?としかもう、もう、あの。
だから!水戸黄門が現れて、A村とB村があって、両方困ってんのにA村だけしか助けなくてそんでカッカッカッカー!(笑)で終わりになったら「???」なるでしょがー!!!
ってことなんだよ・・・・・・・
なんで気付かないだろうかもう。

極悪人は裁いてぶち込むか吊るすしかない人は吊るしてって思うけど、極悪人だけど優しさってこうだよねって言える人と、とりあえず普通に生きてて、えーあの作品面白かったよ?優しさ?言ってる意味よくわかんないけど?って人、どっちかっていったら、どっちなんだよ。
どっちがマトモかっつったら、そら後者だよ。
そらちゃんと真面目に生きてる人の方に決まってるよ。
でもモヤモヤはしちゃうなぼく。
ぼくはモヤモヤする。
このモヤモヤが消えん限りは、もうマトモ扱いされんでいいわ。
静かな狂人として生きていきますわ。
そんなこといって自分がマトモだってことは毛ほども疑ってないくせに!
ほんとにな。
そこが厄介。
その厄介さも好きっ!みたいなね。
俺は本当自分大好きだ。
大好き丸だ。

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