どこへ行く
2007年9月17日今日は「怪物くん 怪物ランドへの招待」「あしたのジョー2」観て夕飯食って寝た。
「怪物くん 怪物ランドへの招待」は、劇場版第一作。
ドラえもんとのび太の友情には素直に心を動かされること度々だ。
でもドラえもんってのび太にとって何?ていうかドラえもんて何?
って考えると、よくわからねえ、と思う。
友達だよー、ロボだよーといやそらそうなんだけど、でもやつはのび太にとって兄だったり弟だったり母だったりロボだったりもすると思う。
ときとして友達ってのはそんなもん、といえばそんなもん、なのか?も知れないけど、とにかくドラえもんがもし人間だった場合、のび太にとって何にあたるのかがさっぱり見当がつかない(ドラえもんはドラえもんだ)。
他の藤子物でもわりとそうで、Qちゃんと正ちゃんだろうがハットリくんとケンイチうじだろうがチンプイとエリさまだろうが、じゃあ一般であるような人間同士の関係だった場合、どうなってるの、どんななの、と考えるとあんまよくわからない。
「怪物くん」におけるのび太こと、ひろしには両親がいない。
早くに他界しているらしく、姉とアパートで二人暮らしをしている。
これは子供向け藤子アニメではものすごく特殊な設定だと思う。
怪物くんはというと、怪物ランドのプリンスだい、なので王子様だ。
人間世界には王子様修行のためにやって来たらしい。
ひろしのアパートの隣の屋敷に来た怪物くんは、同性同世代のひろしと半ば無理やり友人となったという。
劇場版を観て思うに、怪物ランドには同性同世代の友人がいなかったのだと思う。
いたとしても、怪物くんは怪物ランドのプリンス、なかなか当たり前の付き合いはできなかったんじゃないだろうか。
怪物くんはわりと頻繁に「ひろしはおれの親友だ」というのだけれど、その言葉には微塵の胡散臭さも感じない。
怪物くん、王子様、という浮世離れしたキャラクターにとって、そんなところでつっぱる必要も計算高い必要もあるはずがなく、聞いても素直に「ああ怪物くんにとってひろしは本当にそうなんだなー」と思えるのだ。
ひろしはひろしで、怪物くんという存在がかけがえのない友となったのは、やっぱり自身が抱えていた孤独によるものが大きかったんじゃないかと思う。
両親がいないということで周囲と何かしらの隔たりを感じていたひろしと、王子様という地位にあり、そして両親と離れて暮らしている怪物くんという存在は、ひろしにとって、何か色々顔とか変わるし面白い、以上のところで大いに惹きつけられるものがあったんじゃないだろうか。
今回の劇場版最後、なんだかんだあった末の怪物ランドでのパーティで、父である怪物大王に抱えられうれしそうにしている怪物くんを見て、ひろしはなんとなく会場を抜け出す。
気付いた怪物くんは、1人寂しそうにしているひろしに近づき声をかける。
「ひろし、明日帰ろう」
「え!だってまだ来たばかりじゃないか!」
「いいんだ、親父にも顔を見せてやったし、それにひろしの姉さんの顔が見たくなったんだ」
「怪物くん・・・」
こういうことをさらりとやるから藤子アニメはこえーよ、こえーよ!思う。
あれこれ手練手管で感動させようとかじゃなく、人間の真実を描こうと思ってそれを素直に見せることできたら、どんなに単純だって人の心は動くもんだと思う。
事実俺は動いた。
動きまくった。
怪物くん人形を買って抱きしめて寝たいと思った。
ひろしと怪物くんの関係は、一般藤子アニメのなんだかよくわからないけどファンタジーな存在と(非日常)とぼくら(日常)の友情譚というのとはまたちょっと違った、リアリティを含んだものになっていると思う。
それは決してのび太とドラえもんに真実がないということじゃなく。
またそれとは全然別のところで、今回の劇場版のバトルシーンで怪物くんが父・怪物大王の姿に変身して戦うところが面白かった。
思うに、あれは単純に変身しただけというのではなく、実は怪物くんのもうひとつの真の姿なんじゃないだろうか、と。
もう少し突っ込んで考えると、怪物くんはフルパワーで巨大化するとあとで後遺症でふにゃふにゃになってしまうらしいのだが、この怪物大王(かなり巨体&パワー)への変身解除後はそうした描写も見られなかった。
そんな設定は結構燃える(想像だけど)。
劇場版「怪物くん」は2作目(というか全2作しかない)も結構評判良いらしいので、いつか必ず観たいと思う。
「あしたのジョー2」は、最終回。
矢吹丈という男が旅の途中ふらっと始めたボクシング。
やりきった。
また旅に出る。
それがアニメの矢吹丈なんすかどうなんすか。
というか劇中もジョーはずっと旅を続けてきたのだ。
ずっとひとりだった。
そしてまたどこかへ行く。
そうなんだ。
おわり。
「怪物くん 怪物ランドへの招待」は、劇場版第一作。
ドラえもんとのび太の友情には素直に心を動かされること度々だ。
でもドラえもんってのび太にとって何?ていうかドラえもんて何?
って考えると、よくわからねえ、と思う。
友達だよー、ロボだよーといやそらそうなんだけど、でもやつはのび太にとって兄だったり弟だったり母だったりロボだったりもすると思う。
ときとして友達ってのはそんなもん、といえばそんなもん、なのか?も知れないけど、とにかくドラえもんがもし人間だった場合、のび太にとって何にあたるのかがさっぱり見当がつかない(ドラえもんはドラえもんだ)。
他の藤子物でもわりとそうで、Qちゃんと正ちゃんだろうがハットリくんとケンイチうじだろうがチンプイとエリさまだろうが、じゃあ一般であるような人間同士の関係だった場合、どうなってるの、どんななの、と考えるとあんまよくわからない。
「怪物くん」におけるのび太こと、ひろしには両親がいない。
早くに他界しているらしく、姉とアパートで二人暮らしをしている。
これは子供向け藤子アニメではものすごく特殊な設定だと思う。
怪物くんはというと、怪物ランドのプリンスだい、なので王子様だ。
人間世界には王子様修行のためにやって来たらしい。
ひろしのアパートの隣の屋敷に来た怪物くんは、同性同世代のひろしと半ば無理やり友人となったという。
劇場版を観て思うに、怪物ランドには同性同世代の友人がいなかったのだと思う。
いたとしても、怪物くんは怪物ランドのプリンス、なかなか当たり前の付き合いはできなかったんじゃないだろうか。
怪物くんはわりと頻繁に「ひろしはおれの親友だ」というのだけれど、その言葉には微塵の胡散臭さも感じない。
怪物くん、王子様、という浮世離れしたキャラクターにとって、そんなところでつっぱる必要も計算高い必要もあるはずがなく、聞いても素直に「ああ怪物くんにとってひろしは本当にそうなんだなー」と思えるのだ。
ひろしはひろしで、怪物くんという存在がかけがえのない友となったのは、やっぱり自身が抱えていた孤独によるものが大きかったんじゃないかと思う。
両親がいないということで周囲と何かしらの隔たりを感じていたひろしと、王子様という地位にあり、そして両親と離れて暮らしている怪物くんという存在は、ひろしにとって、何か色々顔とか変わるし面白い、以上のところで大いに惹きつけられるものがあったんじゃないだろうか。
今回の劇場版最後、なんだかんだあった末の怪物ランドでのパーティで、父である怪物大王に抱えられうれしそうにしている怪物くんを見て、ひろしはなんとなく会場を抜け出す。
気付いた怪物くんは、1人寂しそうにしているひろしに近づき声をかける。
「ひろし、明日帰ろう」
「え!だってまだ来たばかりじゃないか!」
「いいんだ、親父にも顔を見せてやったし、それにひろしの姉さんの顔が見たくなったんだ」
「怪物くん・・・」
こういうことをさらりとやるから藤子アニメはこえーよ、こえーよ!思う。
あれこれ手練手管で感動させようとかじゃなく、人間の真実を描こうと思ってそれを素直に見せることできたら、どんなに単純だって人の心は動くもんだと思う。
事実俺は動いた。
動きまくった。
怪物くん人形を買って抱きしめて寝たいと思った。
ひろしと怪物くんの関係は、一般藤子アニメのなんだかよくわからないけどファンタジーな存在と(非日常)とぼくら(日常)の友情譚というのとはまたちょっと違った、リアリティを含んだものになっていると思う。
それは決してのび太とドラえもんに真実がないということじゃなく。
またそれとは全然別のところで、今回の劇場版のバトルシーンで怪物くんが父・怪物大王の姿に変身して戦うところが面白かった。
思うに、あれは単純に変身しただけというのではなく、実は怪物くんのもうひとつの真の姿なんじゃないだろうか、と。
もう少し突っ込んで考えると、怪物くんはフルパワーで巨大化するとあとで後遺症でふにゃふにゃになってしまうらしいのだが、この怪物大王(かなり巨体&パワー)への変身解除後はそうした描写も見られなかった。
そんな設定は結構燃える(想像だけど)。
劇場版「怪物くん」は2作目(というか全2作しかない)も結構評判良いらしいので、いつか必ず観たいと思う。
「あしたのジョー2」は、最終回。
矢吹丈という男が旅の途中ふらっと始めたボクシング。
やりきった。
また旅に出る。
それがアニメの矢吹丈なんすかどうなんすか。
というか劇中もジョーはずっと旅を続けてきたのだ。
ずっとひとりだった。
そしてまたどこかへ行く。
そうなんだ。
おわり。
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