▼平成最高のゲーム
『クロノ・トリガー』が選ばれた。
ふーんと思うしとくに異論はない。
振り返ってみればひとつの到達点だったなーという感慨はあるし、自分がメガネをかける要因となったタイトルでもあるので。
皆で選ぶのであればここらが妥当なところだなと。
個人的には、少し悩むけど、やっぱり『太陽のしっぽ』だ。
『太陽のしっぽ』はものすごく評価されるかクソゲー扱いされるかが極端な作品。
どちらかといえばPS初期の黎明期に生まれたまさにカオスゲーとしてのほうが名高い気がする。
一応はアクションゲームで、原始人を操作する、原始人は勝手に寝ちゃう、寝てる間はなにもできない(プレイヤーは寝てる様子をひたすらながめる)、操作性もいいとはいえない、たまにBGMが流れる、オープンワールド(だだっぴろい)、落ちているアイテムがなぜか和菓子、たまに意味不明なオブジェがある、オブジェのほとんどは進行とは無関係・・・等々のプレイヤーを無駄にとまどわせる要素満載。
マンモスを倒して牙を集めて塔をつくって太陽のしっぽをつかむという一応の目的はあるのだけど、その目的自体が謎だし、目的を果たしてむかえるエンディングもまた人によってはカオスに感じるだろうし、とにかく目的に向かうこと自体が楽しいゲームでないことも事実。
とりあえずはエンディングに向かって進めるけど、その過程での楽しみはプレイヤーの皆さんで勝手に見つけてねー、って言われてる感じ。
冷静に考えるとそんなゲームがあってのいいのかっていう。
なので勝手に楽しみを見つけられるかどうかで評価が分かれるゲームで、見つけられた自分はとにかく楽しかった。
というかこれより前に同じ制作会社アートディンクの出していた『アクアノートの休日』もまた「勝手に楽しんでね」的なゲームで、そこですでに自分は「勝手に楽しめてた」ので、『太陽のしっぽ』が出ると知り「また勝手に楽しめる!!」と最初からそのつもりで喜んだものだった。
そしてその「勝手に」具合で『太陽のしっぽ』は『アクアノートの休日』を越えていた。
『アクアノートの休日』はまだ「海きれいだねー。魚泳いでるねー」みたいな観賞ゲー的なわかりやすい楽しみ方はあったけど、『太陽のしっぽ』にそんなわかりやすいものはない。
だだっぴろい世界にほうりだされて原始人を走らせてうっほうっほ動物倒して和菓子ゲットしてガースカ寝て起きてまた走ってうっほうっほ動物倒して・・・の繰り返し。
なにがおもろいねん。
なにがおもしろかったのか・・・といえば想像するのがとにかく楽しかった。
原始人は動物にやられたり寿命がきたりすると代替わりするのだけど、そのひとりひとりの人生を想像するのが楽しかった。
勝手に「こいつは戦いが生きがいだから動物たくさん戦わせよう」とか「こいつはのんびりさせよう」とか「こいつは冒険家だからとにかく遠くまで行かせよう」とか「こいつは先代の冒険家の娘だから親父よりもさらに遠くへ行かせたい。あと海が好き」とか。
そしてその冒険の途中で特殊なものワケのワカらないものに出会うたび、今度はそれについて想像する。
深い洞窟とか、壁画とか、思わせぶりに配置された和菓子とか、見ようによっては人間に見える岩だとか、人体の一部のような巨大な何かとか、足だけの生き物とか、二度と来れないと思えるくらい遠くにある島だとか、等々。
そうしたものらはとにかく広いフィールドのなかにたまーーーにあるくらいなので、見つけたときはハッとなってうれしくなる。
それがまたよかった。
そんな『太陽のしっぽ』を作った中心人物である飯田和敏がネットの連載で制作秘話を載せていた。
①
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/171107
②
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/180124
”ゲームのバックグラウンドの解明は、すべてプレイヤーの想像力に託した”
とあって、ああ、自分はまちがってなかったのだなと。
そしてそんなゲームがなぜ、いかにして生まれたかのエピソードの数々は、そのすべてが感動的だ。
多感な時期に色んなものをもらった『太陽のしっぽ』に、今また新しい多くのものをもらった感じがする。
かつて自分は原始人たちのことを、あの世界のことを「知りたい」と思った。
その気持ちが今もあって、様々なことに対して向けられることをありがたく思う。
▼最近の窓ハルカ先生
股間の検査(「初対面の人に膣をまさぐられる日」と先生は表現)に行ったらしい。
患者と医師の間をカーテンで仕切られるのが不安だ、なぜ仕切るんだ、みたくツイートされてた。
個人的にはそういう検査時にカーテンを挟むのはセクシービデオ独自の演出なのだと思い込んでいた。
こんなこと実際はしないよな思いながら鑑賞してた。
なので本当にカーテンで仕切るんだ・・・と知った次第というか、よくよく考えればそらそうか。
あとPUBGしかやったことないけどリアルで銃撃ちたいからとサバゲー仲間募集してた。
▼マンガ創作
制作快調!(自分的には)である。
でもふと、たとえばホラードラマや映画とかで、主人公の体験談として始まったのに当人の後ろの方に謎の影が出てきてたりする場面は一体誰視点なの?それ本来は主人公が「見れてない」部分だよね?問題があることに気付く。
今描いてるマンガにもそれがあるものだから。
まあ「気配の可視化」みたいなことにしてそのまま描くつもりだけど。
『クロノ・トリガー』が選ばれた。
ふーんと思うしとくに異論はない。
振り返ってみればひとつの到達点だったなーという感慨はあるし、自分がメガネをかける要因となったタイトルでもあるので。
皆で選ぶのであればここらが妥当なところだなと。
個人的には、少し悩むけど、やっぱり『太陽のしっぽ』だ。
『太陽のしっぽ』はものすごく評価されるかクソゲー扱いされるかが極端な作品。
どちらかといえばPS初期の黎明期に生まれたまさにカオスゲーとしてのほうが名高い気がする。
一応はアクションゲームで、原始人を操作する、原始人は勝手に寝ちゃう、寝てる間はなにもできない(プレイヤーは寝てる様子をひたすらながめる)、操作性もいいとはいえない、たまにBGMが流れる、オープンワールド(だだっぴろい)、落ちているアイテムがなぜか和菓子、たまに意味不明なオブジェがある、オブジェのほとんどは進行とは無関係・・・等々のプレイヤーを無駄にとまどわせる要素満載。
マンモスを倒して牙を集めて塔をつくって太陽のしっぽをつかむという一応の目的はあるのだけど、その目的自体が謎だし、目的を果たしてむかえるエンディングもまた人によってはカオスに感じるだろうし、とにかく目的に向かうこと自体が楽しいゲームでないことも事実。
とりあえずはエンディングに向かって進めるけど、その過程での楽しみはプレイヤーの皆さんで勝手に見つけてねー、って言われてる感じ。
冷静に考えるとそんなゲームがあってのいいのかっていう。
なので勝手に楽しみを見つけられるかどうかで評価が分かれるゲームで、見つけられた自分はとにかく楽しかった。
というかこれより前に同じ制作会社アートディンクの出していた『アクアノートの休日』もまた「勝手に楽しんでね」的なゲームで、そこですでに自分は「勝手に楽しめてた」ので、『太陽のしっぽ』が出ると知り「また勝手に楽しめる!!」と最初からそのつもりで喜んだものだった。
そしてその「勝手に」具合で『太陽のしっぽ』は『アクアノートの休日』を越えていた。
『アクアノートの休日』はまだ「海きれいだねー。魚泳いでるねー」みたいな観賞ゲー的なわかりやすい楽しみ方はあったけど、『太陽のしっぽ』にそんなわかりやすいものはない。
だだっぴろい世界にほうりだされて原始人を走らせてうっほうっほ動物倒して和菓子ゲットしてガースカ寝て起きてまた走ってうっほうっほ動物倒して・・・の繰り返し。
なにがおもろいねん。
なにがおもしろかったのか・・・といえば想像するのがとにかく楽しかった。
原始人は動物にやられたり寿命がきたりすると代替わりするのだけど、そのひとりひとりの人生を想像するのが楽しかった。
勝手に「こいつは戦いが生きがいだから動物たくさん戦わせよう」とか「こいつはのんびりさせよう」とか「こいつは冒険家だからとにかく遠くまで行かせよう」とか「こいつは先代の冒険家の娘だから親父よりもさらに遠くへ行かせたい。あと海が好き」とか。
そしてその冒険の途中で特殊なものワケのワカらないものに出会うたび、今度はそれについて想像する。
深い洞窟とか、壁画とか、思わせぶりに配置された和菓子とか、見ようによっては人間に見える岩だとか、人体の一部のような巨大な何かとか、足だけの生き物とか、二度と来れないと思えるくらい遠くにある島だとか、等々。
そうしたものらはとにかく広いフィールドのなかにたまーーーにあるくらいなので、見つけたときはハッとなってうれしくなる。
それがまたよかった。
そんな『太陽のしっぽ』を作った中心人物である飯田和敏がネットの連載で制作秘話を載せていた。
①
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/171107
②
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/180124
”ゲームのバックグラウンドの解明は、すべてプレイヤーの想像力に託した”
とあって、ああ、自分はまちがってなかったのだなと。
そしてそんなゲームがなぜ、いかにして生まれたかのエピソードの数々は、そのすべてが感動的だ。
多感な時期に色んなものをもらった『太陽のしっぽ』に、今また新しい多くのものをもらった感じがする。
かつて自分は原始人たちのことを、あの世界のことを「知りたい」と思った。
その気持ちが今もあって、様々なことに対して向けられることをありがたく思う。
▼最近の窓ハルカ先生
股間の検査(「初対面の人に膣をまさぐられる日」と先生は表現)に行ったらしい。
患者と医師の間をカーテンで仕切られるのが不安だ、なぜ仕切るんだ、みたくツイートされてた。
個人的にはそういう検査時にカーテンを挟むのはセクシービデオ独自の演出なのだと思い込んでいた。
こんなこと実際はしないよな思いながら鑑賞してた。
なので本当にカーテンで仕切るんだ・・・と知った次第というか、よくよく考えればそらそうか。
あとPUBGしかやったことないけどリアルで銃撃ちたいからとサバゲー仲間募集してた。
▼マンガ創作
制作快調!(自分的には)である。
でもふと、たとえばホラードラマや映画とかで、主人公の体験談として始まったのに当人の後ろの方に謎の影が出てきてたりする場面は一体誰視点なの?それ本来は主人公が「見れてない」部分だよね?問題があることに気付く。
今描いてるマンガにもそれがあるものだから。
まあ「気配の可視化」みたいなことにしてそのまま描くつもりだけど。
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